あるピアニストの一生

おしゃべりコンサート ショパンの生涯

2004年のコンサートのときのテクストを起こしたものです。

 

13.破局へ

 破局は47年にやってきます。直接の原因は子どもたちにあると言われておりますが、ただまあ1組の男女が別れる原因というのは、何か1つの事件でそれで別れるというようなものではなくて、たぶんそれまでに色ーんな事が積もってきて、最後の引き金になったのがその子供たちのことである、というふうに考えるのが妥当だと思います。これは私の推測ですが、おそらくサンドにとって、ショパンは重荷になっていったんだろうなと。少しずつ少しずつ。ショパンにとってはこの関係は比較的居心地がいいもので、サンドももちろんショパンの天才を認めて、この天才を自分が庇護して、自分が守り、そして育てるといいますか、ということに生きがいというか情熱を見出したとは思いますけど、しかしもともとサンドは非常に外交的で闊達な人でありましたし、やがて少しずつショパンという存在がサンドにとって重荷になって行ったんだろうなと思います。
 サンドには2人子供がいて、上が男でモーリス、下が女でソランジュといいます。モーリスはショパンを嫌っておりました。これはまあ、母親の愛人がいつのまにか愛人というより息子、つまり自分の兄みたいな存在になっておるわけで、なんかそりゃあ気持ち悪いというか、モーリス君がショパンを嫌うというのも何となくわかるような気がします。で、娘のソランジュは、初めはやはり嫌っていたようですけど、思春期になってから母親と衝突をし始めます。年頃の娘が、自分の母親が次から次へと愛人を変えているなんていうことになれば、これはやはりいい目では見ませんわな。そしてショパンの部屋に入り浸るようになります。何かあるたびにショパンにぐちぐちこぼす、ショパンをそれをおとなしく聞いてやる。ソランジュはショパンにかなり甘えていたようであります。
 サンドはある手紙の中で、「わたくしがこの世で最もかけがえのない2つの宝がある。1つはショパン、1つはモーリスである」。サンドにとってショパンと長男のモーリスが最も大切だった。娘は2の次か3の次か4の次か5の次くらいなんですよね。
 実は45年にサンドはちょっとした浮気をしております。相手は、これはヨーロッパの政治史に詳しい方ならご存知であろう社会主義者のベイグラン(管理人注:私が浅学のため、聞き取れないというか、こんな感じの名前の人物は思い当たりません。聞き違えてる可能性があります)という男ですが、それとまた45年にサンドが発表した小説がありまして、その小説の中に間違いなくショパンをモデルにしたと思われる人物が出てきます、その人物を非常に悪意をもって描いております。ということからしても、サンドが心の表面で自分に言い聞かせてどう思っていたかはわかりませんけども、少なくともサンジュの心の奥底に、内面のほうに、この頃からぼちぼちショパンに対しての何か暗いもの、嫌なものが溜まりつつあったことは間違いないんじゃなかろうかと思います。
 ショパンの作品も少しずつ数が減ってまいります。そして大規模な作品が減ってまいります。今から弾きますのは46年の作品です。

 

14.破局

 47年に破局が訪れるわけです。ソランジュが婚約をしておりまして、その婚約直後に、彫刻家のクレサンジェという男がノアンのサンドの屋敷にやってきます。そこで女たちの関心を買ったというか、女たちに取り入ったというか、すごく好かれまして、ソランジュのほうはたちまち婚約を解消して、こちらのクレサンジェ君と婚約をする。サンドもそれを大いに(実はサンドも好意があったとか色んな話がありますけど)賛成をする。で、そのことをパリで聞いたショパンは反対をするんです。クレサンジェという男はよく知っている、あれはろくでもない男であると。ということで反対の手紙を送ります。それに対してサンドの側は、無視するというか、これはうちの家族のことである、で、ショパンは反対しているから結婚式にも呼ばない、ということで、あくまでこれはうちのことです、というスタンスで、ショパンを無視して話を進めて、結婚しちゃうんです。
 結婚してふた月も経たないうちに、その新婚の夫婦がノアンのサンドの屋敷にやってきて、でここから残っている証言がサンドの側からのものだけですので、何がどうなったのかよくわからないんですけど、大喧嘩が起こる。原因も色々言われておりまして、強請ったとか、単に金を借りに来ただけだとか、この屋敷を抵当に入れて借金してくれと言われたとか、色んな説があります。で、どこまで衝突したか、暴力沙汰が起こったとか、あるいはモーリスがライフル銃を持ち出して追っ払ったとか、殺人事件一歩手前まで言ったとか、まあ色んな話が飛び交っておりますけども、とにかく決定的な大衝突が起こります。それでソランジュの新婚夫妻は追い出されてショパンに手紙を書きます。「馬車を貸してくれ」と。つまり馬主を雇う金もないわけですね。で、ショパンはこれに承諾の手紙を書いて、ついでに、サンドにも手紙を書くんです。その手紙というのが、まあ、クレサンジェについてはいいと。しかしソランジュはあなたの娘でしょうと。あなたの娘ならもうちょっと何かあったのではないかという感じで、ちょっとたしなめるような口ぶりの手紙を書くわけです。で、これで、サンドはキレたんです。
 まあ、サンドにしてみれば、自分がそれこそ掌中の珠のごとくこれまで守り、庇護し、大切にしてきたショパンが、こともあろうに自分の馬鹿娘の肩を持って私を非難する、とこういう感じですね。ま、人間というのは自分に多少非があるときに余計に怒るもんなんですけど、このときもなまじ結婚に最初ショパンは反対して自分は賛成しておる、という多少負い目があったので、余計に頭に来たんだろうと思います。で、これで、サンドは非常に冷たい決裂の手紙をショパンに寄越して、それで、終わりです。
 ショパンのほうは、結局なんで自分たちの関係が終わったのかというのはしばらくよくわからなかったようであります。今から弾きますのはその破局寸前かどうかよくわかりませんが、その破局の年に書かれた音楽であります。

 

15.困窮と病床

 翌48年、2月革命というのが起こります。パリは騒乱の巷になり、これまでショパンのお得意さんといいますか、ショパンのレッスンに通っていた貴族階級、上層ブルジョワジー、いわゆるお金持ちがだいたいパリを逃げ出してしまうわけです。で、ショパンは全然お金を貯めておりませんので、たちまち生活が危なくなる。さあどうしようというときに、イギリスにかつてショパンのレッスンを受けていたスターリング嬢という方がいて、イギリスに来ないかと勧めてくれます。で、7月にロンドンに行くことになります。で、あちこち引き回される。このスターリング嬢と、そのお姉さん、この人はもう結婚していて、姉妹であちこちと引き回してくれるわけですね。ショパンは「引き回される」と言ってますが、ただまあ向こうにしてみれば、イギリスの社交界にデビューさせなあかんわけですから、当然いろんな方にお会いせなあきませんから、あちこち引き回すのは当たり前なんですけど、しかしもうショパンの健康はそれに耐えられなくなっていたんですね。最後にはビクトリア女王の前で演奏したりなんかしますけれども、結局疲労困憊してしまう。ショパン自身の言葉で、「気候が合わない。午後2時まで何も出来ない。食欲もないのに食後の団欒に加わらなければならない。苦痛だ。召使に背負われて2階の寝室に辿り着く。眠りについても息苦しさで目覚め、夢にうなされる。」
 で、結局、もう帰りたい、と言うわけですね。医者は止めるんですけども、無理を押して、小康状態のときに、翌49年の1月にパリに戻ってまいります。で、戻ってきてからはほとんど病床についていたといいます。ほとんど作品も48年からはないんですけど、ショパンが一番その死ぬ直前まで書いていた、絶筆と言われている作品がこのマズルカの68の4というものです。
 ちなみに、スターリング嬢は実はショパンと結婚したかったようです。4つ年上ですけどね。ショパンはこれはきっぱりはねのけたようであります。ただ、彼女たちがいい人であったことは間違いないようで、ショパンがパリに帰って、しばらく当座のお金にしてくださいと、2万5千フラン、ショパンに贈っています。今のお金にしてほぼ1億円くらいです。ただこのお金は実はトラブルがありまして、3ヶ月ほど行方不明になったんですが、まあ最終的にはショパンの手元にちゃんと渡っております。

 

16.逝去

 10月17日、ショパンは亡くなります。葬儀にはパリの著名人がほとんど参列したといいます。枕元にいたのはデルフィーナ・ポトッカ伯爵夫人、ソランジュ、あと親しい方たちが数人いたといいます。これ実は何人くらいいたのかがよくわからないんですね。あとからあとから知り合いの女性が私もいた私もいたと、結構増えてきたらしんですが。まあ7,8人か、それくらいの人に見送られてショパンは旅立っていきます。
 死んだ後、ソランジュの夫のクレサンジェ、彫刻家ですけども、彼がちょっと活躍しておりまして、ショパンのお墓の記念碑の彫刻を、実は彼が完成させております。
 で、ショパンの葬儀に流れた音楽というのがですね、先ほどのプレリュードの4番、そしてモーツァルトのレクイエム、そして、ショパン自らの書いたこの葬送行進曲であると言われております。

 

17.エピローグ

 ショパンの音楽というのは、日本のみならず世界中で人気があるわけです。まあ特に普通のクラシックファンではない方にでも、ショパンの音楽というのは人気があります。その人気の秘密は何なんだろうということを、多くの方が色々とおっしゃっております。私も今回色々ショパンのことを調べまして、その中で、私の一番心に残った文章を最後に読ましていただきます。
 これはショパンが死ぬ直前にロンドンで行った演奏会を聴いた、そのロンドンのスターリング嬢の友だちが、スターリング嬢に宛てた手紙の中の文章です。

「私は、あの方の音楽を、何にも増して好きでございます。それは、一般に賞賛される種類の芸術ではないからです。また、ほとんどの音楽が、私に与える感銘とは、種類を異にするものでございます。それは、あの方の魂の一部の反映でございますし、あの方の生活の断片が、聴く耳を持ち、理解する心を持つ人に、与えられるのです。あの方の作品の1つ1つが、あの方の寿命、あの方の定められた命を削って出来上がったものだと私は思います。」

 それでは最後に、別れの曲で、お別れいたします。

 

 

管理人のあとがき

 これに何か付け加えるというのはある種冒涜的ではありますが、まあ遺族特権ということで一言だけ付け加えますと、これは2004年のコンサートです。彼は2005年に離婚をしております。まさしく彼が語った通り、別れというのは積年の怨嗟によるところ大(そうかなあ、自分の経験では必ずしも・・・いや、やめときましょう)ですので、05年に急に夫婦仲が悪くなったのでは当然ないわけです。記憶によれば04年というのはもう互いの温情も底打てりという時期です。離婚の話も当然出ていたはずです。もはや関係の修復は不可能であり、子どもたちが大人になるまで耐え得るか耐え難きか、あとはタイミングの問題だというところまで来ていたはずです。
 自分の頭の中の風景を04年まで巻き戻して、そして上のエピローグで引用した手紙を読むと、おそらくは父の人生の1つのキーワードであった「孤独」というものが、白い泥の中から浮かんできたような感じがしました。
 「一般に賞賛される種類の」人間ではなかった父は、自分の命を削って紡いできた音楽、あるいは日々の生活の断片、あるいはまたその生涯の全体が、「聴く耳を持ち、理解する心を持つ人に」「種類を異にする感銘」を与えんことを心から願って、いや、俺ならばきっと与えられるはずだという、難度海の底で力強い光を放つような希望を目を凝らして探す思いで、この文章を選んだのではなかろうか。
 そんなことを思いながらの、テープ起こしでした。最後までお読み下さってありがとうございました。

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