あるピアニストの一生

おしゃべりコンサート ショパンの生涯

2004年のコンサートのときのテクストを起こしたものです。

 

9.ショパンの音楽の特徴

 ピアノ音楽の2人の大作曲家として挙げられるのがベートーベンとショパンです。どう違うかというのは、もちろん色々違いはありますが、ショパンはピアノしか作らなかった。チェロ曲と歌曲をほんの少し作ってますが、作品の90%以上がピアノ曲です。ベートーベンはご承知のように、何でも作ったんです。交響曲、弦楽四重奏曲、宗教曲、オペラ、ありとあらゆるものを作った。で、ショパンのピアノ曲全部並べて、ベートーベンのピアノ曲全部並べて、あんまり曲数が変わらない。それくらいショパンは数が少ない。作曲家としては極めて数が少ないです。
 他には、たとえばベートーベンに熱情という曲があります。古今東西最高のピアノ曲の1つですけども、これを例えばほかの楽器に移し替えて弾くことが出来るかというと、できないこともないかな、という感じがあります。まあちょっと変になりますけどね。部分的にはもちろん可能ですし。ベートーベンのピアノ曲のレッスンするときに、ここはホルンのようにとか、ここはオーボエやでとか、ここはフルートとか、ということはよく言うんですよね。ところがショパンのピアノ曲に関してはそれがほとんど当てはまらない。今から弾く木枯らし、これはショパンのエチュードの中の最難曲の1つですけども、ピアノ以外の楽器に移し替えることは不可能です。
 ピアノという楽器は実はある意味で1番易しい、何が易しいかというと、「ドレミファソラシド」と弾くのに、ピアノならこうやって簡単にできますけども、これ歌で今の速さで「ドレミファソラシド」と歌おうと思ったら相当上手くないとしんどいです。フルートでやろうと思っても大分練習しなあきませんし、バイオリンでやろうと思っても大分練習せなあかんのですね。ピアノですと、たぶん最初にレッスンに来たその日にできます。それくらい、同じことをしようと思ったときにピアノは一番時間が短くて済みます。
 だったらピアニストは楽かというと、そうじゃないんですよね。やっぱり同じ時間、いやそれ以上の時間を練習します。ということはつまり、ピアニストに課されている技巧というのはもう極限まで達してまして、他の楽器では絶対にできないような技巧をピアノでは要求されているわけです。たとえば今から弾くこの木枯らしは、他の楽器ではそもそも演奏不可能ですし、仮に今の人間の運動神経の倍くらいあるロボットが発明されて、バイオリンでやるとか、フルートでやったとしても、音楽が全然違うものになるというか、音楽に魅力がなくなってしまいます。ショパンの音楽というのはピアノから切り離すことができない。ピアノ曲であるがゆえに意味が有るわけでして、他の楽器に移し替えたのではその魅力がまったくなくなってしまう、というところがショパンという作曲家の非常に特異な点であったかと思われます。

 

10.サンドとの出会い

 ショパンに多少とも関心がおありの方は、ジョルジュ・サンドという名前をきっとお聞きになったことがあると思います。ショパンの後半生を彩る女性です。ジョルジュ・サンドというのはペンネームで男の名前です。ショパンより3つ年上だったようですけど。19世紀前半のフランスにおいて、というかおそらく世界のどこでも、女性が1人で職業婦人として身を立てていくなどということは、ほとんど想像の埒外にあることでして、最初にやはりそれを秘して男性のペンネームで小説を書いたわけです。で、それがヒットしまして、ヒットしたらもう女性であることがわかってもよかったんですけども、結局そのペンネームでずっと通したわけです。
 最初にショパンと出会ったのが36年の10月。そのときにショパンは強烈な印象を受けたらしくて、「とても有名な人と会いました。ジョルジュ・サンドという名で知られていますが、その表情には共感できない何かがあります。近寄り難い人です」という手紙が残っています。もう1人友人に「あれは女性ですか」と聞いたという話もあります。だから初めはちょっと拒否反応を示したというか、相当強烈な印象を受けたようです。
 サンドのほうはたちまち心を奪われたというか、ショパンに対して吸い込まれるような思いになったようであります。これから、強引にというか、強烈なアプローチをかけます。ショパンのほうはこの頃、マリアとの婚約が、大分怪しくはなっていたけれど、まだ破談にはなっていない段階で、その頃はサンドの誘いを袖にしていたんですけども、結局マリアとが破談になって、いつのまにか2人は恋人同士になります。マヨルカ島
 翌38年の11月にスペインのマヨルカ島というところに2人で旅行をします。これは愛の逃避行なんて言われるんですけど、実はサンドはもう1人恋人がいまして、その恋人がショパンのことを嗅ぎ付けて、付け狙っていたと、それから逃れるためだったという話があります。
 で、マヨルカ島に行ったんですけども、それが実は散々な目にあいます。当時スペインに内戦がありまして、その避難民がいっぱい押し寄せていた。宿泊先すらなかなか見つからない。ピアノは届かない。雨が続いて血は吐く。医者に見せたら死にかけているといわれた。やっと1ヶ月経ってまともな住居に移ります。移るんですが、全然歓迎されなかったといいます。今でも田舎の人は割と保守的ですけども、まして19世紀スペインのド田舎です。そこに、男の格好をした女が現れるわけです。子供を2人連れている。もう1人男が居る。別に父親でも何でもないらしい。なんかようわからん。おまけにあの男は時々血を吐くと。まあこれは歓迎されませんわな。
 まずものを売ってくれない。足元を見られてべらぼうな値段をふっかけられる。仕方ないから船便でフランスから取り寄せるとかっぱらわれる。外に出ると石が投げられる。ショパンの病気のためにヤギの乳を手配すると盗み飲みされる。と散々な目にあうようです。ただ、どういうわけか、ショパンの創作意欲には火がついたようでして、ここで結構たくさんの曲を作ります。24のプレリュードを書き上げ、その次に弾きますスケルツォの3番なんかもここで大部分の曲想が練られたと言われております。で、次に雨だれを弾くんですけど、これはジョルジュ・サンドの言葉が残っておりまして、それが「雨だれ」という曲名のもとになっています。
 サンドによりますと、「彼の天与の才は、自然の、神秘的な響きの数々で満たされていた。それらは彼の音楽の思考の中で、崇高なものに置き換えられるが、決して外界の音を卑屈に真似るのではない。この晩の彼の作曲の場は、雨の雫の音で満ち満ちていて、それらはシャルトリューズ修道院の、よく鳴る屋根瓦の上で響いていたのだが、しかしそれらの音は彼らの想像の中で、彼の歌の中で、天上から彼の心の上に振り落ちてくる涙に置き換えられていたのだ。ショパンの天才は、かつて存在した中で、最も深遠な、最も感情と感動の数々に満ちている存在。彼はただ1つの楽器に、無限なるもののもつ言葉を語らせたのだ」そんな言葉を残しております。この言葉が雨だれという語源になっておりまして、今から弾く15番が一応雨だれと言われていますが、実は、わからないんです。4番が雨だれだという人もいます。6番だという人もいます。13番だという人もいます。要するに、同じ音がポンポンと続いたら何となく雨だれっぽいんですよね。一応、今のところは15番というのが多数説です。

 

11.傑作群を次々と生み出す安定期 

 それで、本当はもっと長く滞在する予定だったのを、早めに切り上げて早々に逃げ出します。翌年の2月から帰途につきまして、6月に、サンドはノアンというところ、今パリから列車で2時間ほどと言いますから、パリから200キロくらい離れてるんでしょうかね、そのノアンというところにサンドの邸宅があって、そこに落ち着くことになります。以後46年まで、8年間、ショパンは夏はノアン、冬はパリ、そういう生活を送ることになります。冬のパリは大きい邸宅が見つからなかったようで、別居です。その44年くらいまでが、ショパンが心身ともに最も安定していた時期で、この時期にショパンの傑作が数多く作られるということになるわけです。
 一番平穏、平和な時期でして、さほどの逸話というのがあまり残ってないんですけど、ちょっと2,3ご紹介いたしますと、パリにフォンターナ君というワルシャワ時代の同級生がいまして、彼が使い走りを何でもやってくれたらしいです。どうもショパンというのは自分の身の回りのこと、日常的なことをこなす能力はあんまりなかったようですね。「壁紙は、前にいた部屋と同じように光沢のあるもの。縁取りは艶のあるダークグリーンがいい。玄関の壁紙は、○○(聞き取れず)で上品なものにしてくれ。洋服屋のノートルモンでグレーのズボンを頼んでくれ。ただし縞はなくぴったりしたもの。グレーの色は品のいいもの。真っ黒のビロードのチョッキも頼む」とまあこういう感じで細々と全部彼に任せています。非常に便利な存在だったらしいですけども、そのうち何かこのフォンターナ君は食べれなく(生活できなく?)なってきまして、アメリカに逃げ出したようです。
 あと44年に、久々の演奏会をパリで開いております。大成功だったようですけど、ショパンは人前で演奏するのは、特に演奏会という形式で演奏するのは非常に苦手というか嫌いだったようでして、このときジョルジュ・サンドはこんな手紙を送っております。「彼はプログラムもポスターも作りません。多くの人に知られたくないのです。演奏会を話題にしてほしくないのです。あまりにも不安な様子なので、ロウソクをともさず、お客さんも入れずに、音のしないピアノで弾いたらどうかと私は提案しています」そんな手紙が残っているくらいです。

 それでは、この時期のショパンの傑作群の1つ、スケルツォの3番です。

 

12.サンドとの関係の変質

 ショパンのサンドの関係というのは、初めはもちろん恋人同士だったんでしょうけど、安定するにしたがって変質というか、一風変わった関係になったようです。43年のサンドの手紙、これはショパンが先にパリに行って、隣の家に弟子が住んでいたんですが、その弟子に宛てた手紙に「私のかわいいショパンが参ります。あなたにお任せしますから、彼が何といっても構わず面倒を見てください。私がいないと、一日の順序がめちゃくちゃになってしまうのです。朝なのですが、ショパンに必ずチョコレートかコンソメを飲ませてください。私がいると喉に流し込んでやるのですが。ショパンがちょっとでも悪いようでしたら知らせてくださいね。何もかも放り投げて行って看病しますから」
 これは恋人同士というよりは、母親と病弱な息子という関係ですね。44年、これがショパンとサンドの過ごした最後の平和な年ですけど、その44年の5月にショパンのお父さんが亡くなります。そのときにサンドはお母さんに手紙を送っておりますが、その手紙に「私は亡くなられた方のご令息を、私自身の1人の息子と思い、私の生涯を捧げます」と書いてあります。主観的にも客観的にも、ほとんど母と子になってしまった、そういう関係で2人の関係は落ち着いたようであります。
 サンドについては毀誉褒貶はいくらでもありまして、妖婦であるとか毒婦であるとか罵って、サンドのおかげでショパンの寿命は削られてしまったという人もいれば、サンドのおかげでショパンはあの充実した時期を迎えて、あれだけの傑作群をものにできたという人もいます。人生はリセットして実験するわけにはいきませんのでわかりませんが、サンドという人はショパンと知り合うまで、パリの社交界の男はみんなサンドの愛人であると言われたくらい、スキャンダリストというか、次々と恋人を変えていて有名な人です。その人が、少なくとも38年から、44年までの6年間、この間ショパン一筋に生きた、これもまた間違いのない事実です。

 それではそのショパンの充実した人生の中で、ショパンは最後まで、ポーランドというものを愛し、自分がポーランド人であるということについて誇りを持っていたんですけれども、それを、音楽の中で最も表現しているのがポロネーズなわけです。ポーランドの舞曲ですね。ショパンの生前には7曲、出しております。そのうち5,6,7というのが比較的難しいんですが、5番がポーランドの悲劇、6番がポーランドの栄光、7番は少しそういうものから離れた幻想的な世界を描いております。今日はその、ポーランドの栄光を表した6番のポロネーズを弾きます。

 

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