あるピアニストの一生

おしゃべりコンサート ショパンの生涯

2004年のコンサートのときのテクストを起こしたものです。

 

5.秘められた恋

 でまあ、この時期、ショパンに浮いた話があまりないんですけども、実はこのときショパンは密かに恋をしていたのではなかろうかという説があります。相手がデルフィーナ・ポトッカ伯爵夫人。1946年にショパンがこの伯爵夫人に当てた手紙が発見された、というニュースが飛び込んで来て、以後20年ほど音楽学会で大論争が巻き起こります。で、発見者が自殺するとかいろいろあったんですけども、現在ではこれは偽者である、ということになっております。ただ、関係があったということを証明するのは可能ですが、関係がなかったということを証明することは、これはできないんですよね。だからそのラブレターが偽者であったとしても、その2人に何も関係がなかったということにはならない。
 この女性、確かに怪しいというか、何かあったんではないかと思わせる女性ではあるんです。ただ、いわゆる一級史料、きちんとした史料にはこの夫人の名前はほとんどでてこないのです。1830年(出会い)と31年(パリに着いて、この方のサロンに出入りした)、その次にちゃんとした史料に出てくるのはもう死ぬ直前です。だったらなぜこの夫人がそう気になるのかというと、ショパンは作品を作るたびにどなたかに捧げるわけですね。Op.10ですとリストに捧げるとか。で、これはたいてい1人に1曲しか捧げてないんです。2曲捧げてもらった人というのが、1人は先ほどのロスチャイルド夫人。まあこれはパトロンですし、ショパンを社交界に引き上げてくれた恩人であり、しかもショパンが死ぬまで、お母さん、娘、孫に至るまで3代みなショパンにレッスンを頼んでるくらいのパトロンですから、これはやむをえないというか当然である。で、もう1人そのデルフィーナ・ポトッカ伯爵夫人がどういうわけか2曲捧げられてもらっています。もう1つこれはショパンが亡くなる直前ですけども、彼女はショパンの臨終の床にいました、これは実はショパンが呼んだようなのです。
 そこらへんから、何かやっぱりこの女性はショパンにとって特別な存在なのではなかったかと思われるわけです。ただ当時フランスはカトリック教国でして、離婚が許されておりません。その夫人は旦那が暴力的な方で、愛想着かしてずっと別居しておりまして、ただご主人から年金をもらっている身分ですので、仮に浮ついた話があるにせよ当然秘めておかなければならない。ということで表に出てないのか、本当に何にもなかったから出てないのか、ここらへんはもう謎であります。真相はわかりませんけれど、この女性は絶世の美女であり、また非常な才媛であったという話で、仮にもし、この方と何かあったとしたら、こういう甘く切ない恋であったかもしれないということで、ノクターンとマズルカを弾きます。

 

6.ショパンのピアノ演奏スタイル

 ショパンのピアノ演奏がどのようなものであったかというと、これはいっぱい証言がありまして、特徴としてはとにかく音が非常に弱かったと。にもかかわらず、つまりpでありながら、何種類もの音を出したといいます。よくリストと対比されますが、リストは圧倒的なテクニックでもって聴衆を熱狂の渦に巻き込む感じで、広いホールで大人数を相手に非常な魅力を発揮した。ショパンの場合は先ほど申しましたように、広いところでは得意ではなかったというか、受けなかった、むしろ少人数相手のサロン、貴族の邸宅で、聴衆がせいぜい20人30人くらいのところで弾くと、そこにいるすべての人々の心を虜にしたといいます。
 一般的にはリストのほうが名前を知られていたようです。何といってもたくさん演奏会をやっていますから。ショパンはほとんど限られた人々の前でしか弾いていない。普通の大衆の耳にはほとんど届いてないんですね。だから、当時のピアニストを評価してたいていリスト、リストと名前が出てきますが、中にはパリにいた一流の文化人で「リスト、しかし彼に匹敵するもう1人のピアニスト、それはショパンである」「リスト、しかしそれに勝るとも劣らぬショパン」という感じで、ショパンをちゃんと挙げている人もいます。一番面白い書き方をしているのはバルザックという文学者で、「リストは悪魔である。ショパンは天使である」と言っております。これはリストが性格が悪いという意味ではないと思います。むしろ性格はリストのほうがよかったと思います。つまりリストは人々の心を、悪魔がグッとつかむように一気に引っさらったんだろうなと。ショパンは、その音色が人々の心に少しずつ浸み込んでいくかのように、人々の心を動かしたんだろうなと、そういう意味ではなかろうかと思います。
 2人のピアノのレッスンというのもそうとう変わっていたようで、リストは指の訓練、今で言うハノンですな、あれだけで1日3時間。自分自身そうやっていたようであります。ショパンは、全部で3時間でいいと。それ以上することはないと。ショパンのレッスンは、からだを柔らかく、柔らかく、からだを柔らかく、柔らかく、ひたすらそう言ったといいます。事実ショパン自身がとても体が柔らかくて、足を肩の上に乗せることができたと伝えられております。ちょっと想像できませんね。ヨガでもしてたんでしょうか。
 ショパンの場合には、お弟子さんが上流階級の子女に限られておりましたので、プロのピアニストという弟子がほとんどいません。したがって流派として残っていないんですね。ただ、そのショパンの教え方が、当時のピアニスト、ピアノ教師の間でも高い評価を得ていたというのは、先ほどのカルクブレンナー、それからモシュレスというピアニストがいましたが、そういう方たちの子どもたちのレッスンを頼まれております。そういうところからも、非常に優れたものであったようです。
 さて、ワルシャワを出て5年経ってやっと両親と再会します。なんでそんなに暇がかかったのかというと、1つにはポーランドの武装蜂起が弾圧されて、パリにいるポーランド人というのは亡命者扱いになり、本国から見れば政治犯なので帰れないわけです。で、そういうのを救済する措置がいろいろ講じられまして、ショパンについてはロシア皇帝直属のピアニストという名誉を与えることで救済するという話があったんですね。ところがショパンはそれを蹴ります。どうやらショパンは終生ロシア人を許せなかったようであります。最後まで自分がポーランド人であるという誇りを持っていたようで、ロシア皇帝のピアニストになんぞなってたまるか、ということで拒否してしまいます。したがってポーランドに帰ることが出来ない。ご両親がドイツまでやってきて、そこにショパンも出向いて、やっと5年ぶりに再会を果たしたと。そのときの喜びにあふれて作ったと言われているワルツがこれです。

 

7.ショパンの一目惚れ

 で、両親に会って、その足で昔の幼馴染、その昔家族ぐるみで付き合っていたヴォジンスカ家というところに訪問します。そこで16歳になっていたマリア・ヴォジンスカに一目惚れします。幼馴染ですから知ってるはずなんですけどね、別れた頃は10歳、再開した時が16歳、可愛らしい、娘さんに変貌していたらしいです。
 珍しくもこの時はショパンは自ら積極的に動くようです。ショパンの生涯でこのときくらいではなかろうかと思います。ひとまずさよならするときに、ワルツを1曲贈っておりまして、それがこの次弾きます、今日「別れのワルツ」と名付けられているワルツです。そして実は翌年、婚約します。ただ、このときに、相手の母親から、その婚約は本人たちと、母親の3人でまだとどめておいてくれ、と言われます。つまり、父親、および叔父さんがうるさかったようで、そのへんは私が時間をかけて説得するから、ということなんですね。これはどういうことかというと、このヴォジンスカ家は貴族です。ショパンは平民。まず身分の違いがあったということ。で、19世紀、日本でいうと江戸時代、この時代において貴族の娘さんというのは、これはコマなんですね。政略結婚のコマです。だから自由に恋愛をして結婚するなどというのは当時まるっきり考えられないんですね。もう16歳になってますから、当然、この子はどこそこのだれそれと一緒して自分とこの何々家との利益とどうとかという、そういう計算を男どもは必ずやっておるわけです。ということで、そういう男たちを説得しなければいけないから、ちょっと時間を貸してくれというわけです。
 で、ショパンに注意を与えます。健康に気をつけてくれと。11時には寝ること。毛糸の靴下を履いてください。それから室内履きも忘れないようにと。まあこういうこまごまとした注意を寄越しております。実は、ショパンは結核でした。いつから結核になっているか諸説ありますが、7歳か8歳のときにはなっていたんじゃないかという話もあります。確実に感染していたのは16歳のときに妹(この妹は結核でやはり死ぬんですけど)と2人で保養(今で言う湯治みたいなもの)に行っておりまして、そのときの医者の記録が残ってます。これを現代の医者が読むと、これは間違いなく結核の症状であるらしいです。ということで、16歳のときにすでに結核にかかっていたことは間違いない。で、このマリアと出会った35年の頃に、その症状が誰の目にも明らかになってきたというか、一段進行したということもほぼ間違いがないようであります。
 で、どうもショパンは注意をあまり守らなかったんですね。まあ11時に寝るなんていうのは、夜はパーティーですからサロンに行っているわけで、あまり身を入れて守らない。37年の2月にインフルエンザで寝込んでしまいまして、その最中にマリアの兄がやってきて、それがご夫人にバレて破談になった、と一応そういうことになっておりますけれど、これは真相はわかりません。本当にその母親がこの2人を結びつけようとしていたのかは実は怪しいもんだと私は思っております。距離が離れていますし、今みたいに頻繁に会いに行くわけにもいきませんから、一時的にのぼせ上がっても、距離をあけておけば、まあそのうち冷めるだろうと、ぐらいに思っていたのではなかろうか。ショパンの病気というのは口実といいますか、のっけの幸いくらいに思っていたのではなかろうかと私は思っているんですが、まあ真相はわかりません。
 ただ、ショパンはこのときは深く傷ついたようでして、マリアからの手紙を小さな小箱に全部入れまして、その小箱に「我が悲しみ」と名付けた、ということです。
 それでは、マリアに贈った別れのワルツを弾きます。これ「別れの」ワルツとありますけど、恋の真っ最中でして、甘い恋人のささやきに満ちているワルツです。こういう縁起でもない名前をつけるから別れるんやないかと思いますけども、まあつけたのはこれはマリアのほうがつけたのであります。

 

8.ショパンの音楽趣向

 で、その足でシューマンと会っています。シューマンはショパンと同年の生まれで、作品2(17歳のときの曲)、変奏曲ですけど、その楽譜を手に入れて夢中になり、自分が書いていた音楽評論で「諸君、脱帽したまえ。天才が現れた」という表題でショパンを紹介して、以後熱烈にショパンを支持するというか、讃美します。
 ただ、ショパンのほうは、まあ褒められることは嬉しいでしょうけど、なんとなくどうも見当違いではなかろうかと思っていた節はあるようで、この年と翌年と2回顔を合わしているんですが、シューマンという人は当時の前衛というか、音楽の最先端、非常に革新的な音楽を書いておりました。ショパンは、少なくとも主観的には、自分自身の意識では、そういうつもりはまったくなかったようであります。余談ですがシューマンはフランス語はしゃべれないし、ポーランド語はもちろんしゃべれない、ショパンはドイツ語がしゃべれませんので、この2人はどうやって会話してたのかと思うんですけども。まあ奥さんのクララがフランス語をしゃべれたのかな、と思ったり、誰か通訳がいたのか、意思の疎通がどれだけできていたのか定かではありませんけど。
 ショパンは、リストについてはピアノの腕前は認めていたようであります。あまり好きではなかったようですけどね。弾き方は。でもまあ上手いと。しかし作曲家としてのリストはあまり認めていなかったし、シューマンに至っては、彼の傑作「謝肉祭」21の小曲を並べたものですけど、その1つが「ショパン」という名前なんです。それを一言評して「あれは音楽ではない」と語ったと伝えられております。シューマンの音楽はまるっきりショパンには理解できなかったようです。ベルリオーズなんかはもうけちょんけちょんです。結局ショパンが評価した作曲家というのは、バッハと、モーツァルトと、ベートーベンと、あと同時代のオペラのベルニーニ。その4人くらいのようです。あとの作曲家はほとんど眼中になかったかのような感があります。
 シューマンは自分の評論の中で、古めかしい音楽観を標榜している連中に対して、新しい革新的な音楽を作り、新しい道を切り開いていく音楽家集団、これをダヴィット同盟と名付けたんですが、その新しい音楽家集団の騎手の1人としてショパンを持ち上げたりしています。ショパンにしてみたらありがた迷惑みたいなもんですけどね。
 しかし、だとすると、シューマンはまるっきりピンボケなことをやっていたかというと、そうでもないんですね。つまりショパンは主観的には別にシューマンのいうような標題音楽、音によって音以外の何かを表そうとする、そういう音楽ははねつけてました。ショパンは絶対音楽の信奉者でした。しかし、ショパンの作った曲、たとえばエチュードは当時のピアニストから散々の不評でして、あれを弾こうと思ったら隣に外科医を置いておけと言われたくらい、ほとんど誰も弾けないくらいの、つまりそれまでのピアノではまったく考えられないような新しい技法が盛り込まれておりました。まともに弾いたのはリストくらいだったと言われております。あとショパンの自らの内的欲求、自らの気持ちに忠実に書かれたその作品というものが、しかし、それまでの音楽家ではおよそ想像もつかないような、革新的な和音、目新しい技法、をやはり駆使していいたわけで、やはりシューマンの天才はそういうものを鋭く見抜いていた、ショパンは確かにピアノ音楽において革新的というより革命的な1ページを切り開いております。シューマンはやはりそういう本質的なところを見抜いていたのではなかろうかと思います。
 1836年にショパンとシューマンに出会ったとき、シューマンが「あなたの作った中で1番素晴らしい作品はこれじゃないかと僕は思う」と言ったのが、このバラード1番です。

 

 その3へ進む

トップへ戻る   1つ上に戻る

© 2015- 田所理央 ご意見・ご感想は t.masato@mathemarimo.bird.cx までお願いいたします。