あるピアニストの一生

おしゃべりコンサート ショパンの生涯

2004年のコンサートのときのテクストを起こしたものです。

1.生誕から少年期まで

 ショパンは1810年3月1日に生まれています。2月22日という説と2つありますが多数派は3月1日です。
 お父さんはフランス人で文学に造形が深かったといいます。お母さんがポーランド人で音楽の素養があった。
 小さい頃から家にあったピアノを鳴らしていて、ひょっとしたらこれはなかなかすごいのではなかろうかということで、6歳のときにジヴニーという方が先生としてお見えになります。で、実は今の曲がショパンの作った最初の曲でして、7歳のときの作品です。ポーランドの学者の中には、これはプロのピアニストがリサイタルに出して何ら遜色のない曲であると、そこまで高く評価している学者はおりますけど、さすがにちょっと贔屓目が過ぎるという感じで、仮にショパンが8歳のときに死んでたら、たぶんショパンという名前は音楽史には名前は残っていなかっただろうと思いますね。まあ、しかしやっぱり7歳の曲にしては、ちょっとすごいな、というのがあります。
 モーツァルトなんかも5歳くらいから作品を残していて、7歳のときの作品というのはあるんですけど、それなどと比べますと、技術的にずっと難しい。だからたぶんショパンのほうがピアノがうまかったのだろうなという推測ができます。
 それで8歳くらいのときはですね、もうあそこに天才少年がいるということで、あちこちに呼ばれて演奏を披露しております。それでジヴニーさんはお手上げになって、11歳のときにエルスネル先生という方につきます。この方はワルシャワの高等音楽学校の校長先生でして、この先生が偉かったのは、ショパンにピアノを教えなかった。この子に教えることは無いと。ということで、作曲の理論だけを教えたそうであります。ピアノについては一切教えなかった。
 それで15歳のときに、op.1のロンドというのを出版しております。opというのはいわゆる作品番号、出版された順番ですね。最初に出版されたのがop.1ということになります。このロンドという曲は相当難しくて、随分長くて、ショパンとしてある程度自信があったんでしょうけれど、今から見ますとやっぱりショパンの作品の中では2流かなという気がします。
 16歳のときにワルシャワの高等音楽学校、そのエルスネル校長先生の学校に入学しました。入学はしましたが、ほとんど別格扱いだったようですね。
 17歳のときに、ノクターンの19番op71-2というものと、あと今から弾きますマズルカを作っておりますが、ここらへんで、ショパンは作曲家としてのある水準を超えたといいますか、一流作曲家の仲間入りをするような曲を作ったと思われます。曲としてはごく短いものですけども、たとえばさっきのポロネーズをもしCDで手に入れようとしますと、ショパンの全集を買うより手がないです。今から弾くマズルカは、マズルカ集を探し回ったら何枚か種類はあるはずです。

 

2.初恋

 ショパンが少年時代、あるいは青年時代、どういう人間であったのかについては、いろんな証言があります。
 ひとつは内気で(体が悪かったので)引っ込み思案で、ウジウジしていたと。もう1つ正反対で、ショパンは非常に物まねが上手くて、いつも誰かの物まねをしてはみんなを笑わせて、クラスの人気者であったと。そういう相反する2つの証言があります。たぶんどっちも正しいんだろうと思います。ショパンの生涯を考えてみますと、決して外交的、活発な人柄ではなかったと思われますけれども、子どもながらの処世術というか、仲間内で道化を演じることで自分のポジションを確保していたんでしょう。
 ショパンの初恋の相手というのが、コンスタンツィア。ソプラノの歌手だったようです。声に惚れたようなものだったんですけど。この方はもう取り巻きというか追っかけが既にいっぱいおりまして、ショパンは遠くから胸を焦がして見ておると。友だちに当てた手紙の中では熱烈にかいておりますが、肝心の相手には1つも打ち明けられないと。そういう状況であったようです。
 18歳、19歳とショパンが成長していきまして、本人にも、周辺の人間にも、このままポーランドにいても仕方がないということが明らかになってきます。音楽家として名前を出すためには、当時の音楽の最先進国であるウィーンかパリに行かなければならない。ということで、いつポーランドを出るか、というところまで話が煮詰まってきていた。
 この初恋の相手に、結局、ポーランドを出る直前に会いに行ったというのが伝えられております。で、会ってどうしたかというと、指輪を贈ったと書いてある本もあります(これは相当すごいことだと思うんですが)。別の本には愛を打ち明けたと書いてある本もあるし、会いに行ったと、それしか書いてない本もあります。どうだったのか結局よくわかりません。ただこの相手のコンスタンツィアさんは、ショパンがワルシャワを出発して1年も経たない間に、他の男と結婚しております。そしてはるか後年、ショパンの初恋の相手が自分であったと知らされたときに、非常に驚いたといいます。これも「ショパン? ああ、なんかあのイジイジした人いたね」という返事であったという説と、「ショパン?・・・・」という、何か思い出したか出さないかという程度の反応だったという説とあります。いずれにせよ、ショパンの初恋はその程度のものであったと。
 しかしショパンはこの初恋の思いというのを自分の音楽の中に盛り込んだと、これは友人への手紙の中ではっきり語っておりまして、コンチェルトの1番および2番の2楽章に自分のコンスタンツィアに対する思いを入れたと、これははっきり書いてあります。 この場ではコンチェルトを弾くわけにはいきませんので、2番の2楽章のメロディーを使ったノクターンというのがございます、それを弾くことにします。

 

3.故郷を離れウィーンへ

 1830年の11月にポーランドを離れます。なかなか出発が決まらなかった理由は、1つには政治情勢が緊迫化していたんです。ヨーロッパの地図が頭に浮かびますか? ロシアの隣にちょこんとポーランドがあって、ポーランドの西隣がドイツ。その時代はプロシア。南には今は小さい国がたくさんありますけど、その時代にはオーストリア・ハンガリー帝国という国があったんです。つまりポーランドは(北は海ですから)3方を強国に挟まれていた。で、18世紀に3国分割というのがございまして、このロシアとプロシアとオーストリア3国の手によって、ポーランドは分割されるんです。分け取りされるわけです。勝手に。
 これがいわゆる18世紀から19世紀にかけての帝国主義の時代で、その時代の考え方というのは世界再分割、世界は進歩的というか優れた諸民族によって統治されるべきである。劣った民族は、優れた民族の下に位置づけられて統治されるのである。で、ポーランド民族というのは劣った民族であるから統治されるべきであると。ということで勝手に分け取りされたんです。これを3回にわたってやられた。
 分け取りされるほうはたまったもんじゃないですから、当然反乱というか、武装蜂起をしょっちゅうするわけです。この頃にもそういう気配が濃厚になっておりました。ショパンも自ら戦いたいような感じはあったんですけれど、お前は体が弱い、だいたい武器を取って戦えるようなもんではないと。とにかくお前の役目はむしろ、世の中に出てポーランドの音楽、ポーランドのオペラを世界の人々に伝えることこそがお前の役目であると、そんなことを言われたのかわかりませんが、友人たち、先生に説得されて、1830年の11月にポーランドを離れてウィーンに向かいます。
 実はウィーンには1年前に旅行していて、そのときに2回演奏会を開いて大成功を収めてます。ということでウィーンに行って歓迎されるだろうと思ったら、今度は全然歓迎されない。理由はおそらく2つあって、前回はアマチュアとして行きました。今回はプロとして行ったわけです。収益を上げるために。とすると向こうはあまりいい顔をしない。もう1つは政治情勢で、つまりウィーンはオーストリア・ハンガリー帝国の首都で、オーストリア・ハンガリー帝国の住民からすれば、ポーランド人というのは自分たちの世界の再分割の秩序にそむくけしからんやつらなんですね。ということで、ポーランド人に対しての風当たりが強くなってきた。ということで、ウィーンに行っても中々埒が明かない。演奏会すら開くことができない。
 このころのショパンの日常がこんなんであったという情報があります。朝は下男に起こされてコーヒーを飲む。9時からドイツ語の教師が来る。終わるとピアノに向かう。来客が多い。昼は友人と外で食べ、カフェでコーヒーを飲む。そして招待された家へ行く。帰宅して、服装と髪を整え、夜会用の靴に履き替えてパーティーになる。夜中に帰ってきてピアノに向かう。と、こういうなのがショパンの日常であったと。
 それで、このままではもう埒があかんということで、ショパンはパリに行こうとします。そのパリに行く道すがら、7月にウィーンを離れて、パリに行く途上のシュトゥットガルトというところで、そのポーランドの武装蜂起に対する弾圧があって、ポーランドがロシア人に占領されたという知らせが届きます。そのときにショパンは日記を残していて、ずいぶん長い日記ですが、その1部分を読むと、

 「父よ、母よ、兄弟たちよ、私の大切なものたちよ。みんなどこにいるのだ。死んでしまったのか。どうして僕は、たった1人のロシア人も殺すことができなかったのか。神よ。あなたはこのロシア人どもの犯罪を飽きるほどご覧になったのではないですか。それとも、あなた自身がロシア人なのですか。母はきっとロシア人が殺した。父は絶望しているだろう。それなのに、僕はここにいる。何もできず、ただため息を漏らし、悲しみをピアノに向かって吐き出すばかりで、気も狂わんばかりだ」

 そういう思いをぶつけたとして有名な曲がこれです。

 

4.パリで初演奏会

 で、8月にパリに入って、家族、親しい友人たちは無事であったという知らせが入ってショパンはホッとします。パリは、とにかくうるさい、人がたくさんいる、ぬかるみばかりである、といった印象だったようです。
 ここでいろいろな音楽家と知り合うわけですけど、カルクブレンナーという当時最高の腕前のピアニストがいまして、この人に紹介されて、このカルクブレンナーがショパンのピアノを聴いて、「3年間私の弟子になれ。そしたら君をヨーロッパで最高のピアニストにしてやる」と言ったそうです。ショパンはパリでいろんなピアニストの演奏を聞いて、このカルクブレンナーだけはすごい、他はあまりたいしたことはない。という感じだったようで、ショパン自らも少し心が動いたんですけど、そのことを聞いたポーランドの両親、およびエルスネル先生が猛反対します。エルスネル先生いわく、「どのような模倣も、独創には及ばない」。
 エルスネル先生に言わせれば、ショパンはまさに独自のピアノの演奏法を切り開いてきたわけで、それを他人の流儀に染めてしまってはいけない、ということなんだろうと思います。それでそのカルクブレンナーはお前に嫉妬しているんだとか、お前をつぶすつもりだとかいろいろ言うんですけど、まあ、カルクブレンナーさんは別に悪意があったわけではなさそうで、結局ショパンは就かなかったんですが、それでもショパンの第一回演奏会のために尽力をしてくれます。
 それで、翌年の2月26日に最初の演奏会を行います。評判はまあまあであったといいます。ショパンのピアノというのは非常に音が弱かったらしく、広い会場ではやや不向きであったようです。
 ここでショパンの運命に1つの転機がありまして、ロスチャイルド婦人、ロスチャイルド一族というのは今でもユダヤ系財閥の名前として時々目にしますが、この大富豪のロスチャイルド婦人と知り合いまして、そこのサロンに行きまして、そのご婦人のレッスンをするようになるんです。で、それを聞きつけて、我も我もとパリの上流階級のご婦人たちがショパンのもとにレッスンを受けにやってくる。ということになって、ここで初めてショパンは生活が安定したというか、非常に裕福な暮らしをするようになります。1回のレッスン料が20フラン、これ今のお金でどれくらいかっていうのはよくわからないというか、換算方法がいろいろありまして何とも言えないんですけども、10万円くらいじゃないかという感じです。で、1日に5,6人レッスンしてましたから、1日で5、60万ですね。まあ毎日もしないでしょうけど、月の半分働いても、1月に700万くらい、年間で8000万くらいですか。累進課税なんかあるわけないですし、普通の人間だったら大金持ちになるはずなんですけどね、全然貯まらなかったといいます。
 何にお金を使ったのかというと、ショパンはこれから社交界の寵児、プリンスとなってもてはやされれるんですけど、まず召使を抱えます。で、自家用の馬車を手に入れます。自家用の馬車というのはつまり運転手はまた別に雇うわけですね。こういうことをした音楽家は当時ショパンだけであります。今で言えば、お抱え運転手つきの、上等の高級の外車を持っていたということで、これは音楽家としては非常に稀というか、当時ショパンだけだったようです。
 音楽家というのはそれこそモーツァルトの時代には自分が召使と同じ程度の身分でしかなくて、ベートーベンが出てあの人は貴族と対等に生きた人ですから、少し地位は上がったんですけど、それでもまだ普通の平民並みです。それが召使を雇う身分になったというのはすごいことでして、これは自分が手紙に書いてるんですけども、「僕はサロンに玄関から入ることを許されている」、これはどういうことかというと、当時のサロンに音楽家というのは裏口からしか入ることを許されなかったんですね。当時最高の売れっ子の音楽家はロッシーニですけども、彼も裏口からしか入ることを許されない。ところがショパンは自家用の馬車でもって、堂々と玄関から入ることを許されたと言います。
 で、あとは身に付けるもの、手袋、時計、香水、カフスボタン、帽子、靴、そういう身に付けるものすべてが一流のものでないと気が済まなかったといいます。そして家具から家の調度品に至るまでことごとくすべて極めてセンスのいいもの、極めて高価なもの、ショパンはパリにおけるファッションの流行の発祥地、原点、基準になっていたと言われるくらい、そういうことに湯水のごとくお金を使ったようであります。したがってまったくお金が残らなかった。
 それどころか、これだけ稼いでいたのにも関わらず、このときに1度ポーランドのお父さんに「金が足らん、送ってくれ」と手紙を出しております。お父さんは「もっと節約しなさい。お金を貯めなさい」と小言を書きながらも、それでもやっぱりちゃんとお金を送ってくれております。
 ショパンが出入りしたサロン、何を弾いたかというと、たいていノクターンとワルツなんですね。そこで、ノクターンを1つ弾くことにいたします。

 

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