クイズ クイズ クイズ くいずなのだ。
挑戦してみるかい。自信喪失してもしらねえよ。
<上級編> プロのピアノ教師クラス
☆第一問 次の記号の説明のうち異論があるものはどれでしょう。
1。Allegro 速く 2。Andante やや遅く 3。Adagio きわめて遅く
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2です。Andanteはご承知のようにほんらいは「歩く速さ」。で、「歩く速さ」とは速いのか遅いのか実はよく分からない。通常は「やや遅く」ですが、少なくとも18世紀以前の作品では「やや速い」と解釈した方が良い場合があると主張する学者もいるようです。
1のアレグロは「快適な速さで」だから1も正解じゃないかというのは、屁理屈。「快適な速さで」は別に「速く」を否定しているわけではないっしょ。
3のアダジオは「きわめて遅く」じゃなしに単なる「遅く」だ、なんて言わないでちょうだいね。
☆第二問 dim.とdecresc.はどう違うのか。
1。全く同じ 2。意味は同じだが、使われていた年代が違う。 3。意味も少し違う。
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これは実は断言が難しいのですが、2が選択肢に入っている以上、1は不正解になります。
2はとりあえず正解。たとえばベートーヴェンですと、1804年の作品までdecresc,それ以降はdim.になります。モーツアルトはdecresc,ハイドンはそもそもその種の記号をほとんどピアノ曲には記していないのですが1795年の作品にdim.があります。
ロマンの作曲家ではウェーバーが私の知る限りdecrescばかり。ショパン・シューマンはdim.です。そこら辺から判断するに18世紀まではdecrescが使われていて、世紀の終わりにdim.を誰かが使いはじめ、最終的にdecrescに取って代わったということだと判断されます。
問題はシューベルト。彼は同一作品にdecrescとdim.とを使い分けています。使い分けているということは、意味も異なると考えるのがまあ当たり前ということで、3も正解。ただどう異なるのかがよく分からない。少なくとも私には分からない。dim.はdecresc+ritであるという説を読んだことがありますが、ほんまかなあと思う。「分かる」と「解る」を私気分的に時々使い分けますが、その程度のことではないのかしらんと実は思っています。
☆第三問 音符の上にターン、その上にプラルトリラーが記されているもの(プラルトリラー的二重打音)があります。前古典派の曲でちょくちょく見かけますが、その奏法は? たとえばドについていたとして、
1。ドレドシド 2。レドレドシド 3。レドシドレド
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1です。
☆第四問 次の文章は正しいでしょうか。
短前打音と呼ばれる装飾音は、理論上はその音価を主音符から削ることになっている。それを装飾音の前の音から削る弾き方、いわゆる近代奏法はロマン派の時代に始まった。ピアニストの中には古典派の音楽までその奏法を使う者がいる。外国のピアニストの中にはバロック音楽まで近代奏法でやってしまう者もいる。これらは音楽史的に見れば誤りであって、してはならないことである。
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正しいとは言えない。
いわゆる近代奏法がおおっぴらに認められるというか主流となるのは19世紀後半のようですが、奏法自体は18世紀フランスにすでにあったことがたとえばテュルクの理論書などに記されています。
理論家はその奏法を誤りであると言い続けたのですが、結局感覚は理屈にまさるということでしょうかね、その誤りであるはずの奏法が最終的には正しいはずの奏法を駆逐してしまったわけです。
ここで問題は作曲家はどれだけ理論家のいうことを信じていたのかということになります。しかし優れた作曲家であればあるほど、己の感覚を理論よりも優先されるのではないかと私は思います。たとえばベートーヴェンが自分の曲の装飾音を近代奏法で弾いているのを聴いたときに、怒り狂ったか、面白いなと思ったかは解りません。しかし面白いと思った人間が多数であったからこそ、最終的に近代奏法が勝利を収めたわけです。
ということで近代奏法がすでに存在していたことが明らかになっている時代の音楽については、その奏法で演奏しても必ずしも誤っているという断言は出来ないと私は思います。
問題はどこまでさかのぼれるかということですが、ドイツ音楽ならば古典派、フランス音楽ならばクープランあたりまでさかのぼっても良いのかもしれないと思います。
私自身は近代奏法を使うのはベートーヴェンの後期からで、それ以前の音楽については古い奏法を教えますし、自分もそう弾きます。ただそれはそれが正しいからというよりはほとんど趣味の問題だろうと思います。
☆第五問 作曲家にはクセがあります。用語の使い方でたとえばショパンのanimatoはテンポを速くしろと言う意味が含まれていると考えられるという説が有力です。 ではブラームスのsostenutoには通常にないどのような意味が含まれているでしょう。
1。tempo rubato 2。calando 3。molto riten.
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3です。ブラームスの作品群、特にハンガリア舞曲あたりを見れば明白だと思います。
なおブラームスだけではなく、少なくとも中欧から東欧にかけての作曲家の間ではsostenutoとは本来こういう意味であるという認識があった可能性があります。バルトークが「14のバガテル」の中で、この作品のsostenutoはmolto
riten.の意味であるとわざわざ断っています。
過去に全く例がないのに突然バルトークが新たな意味を付け加えるはずはないですし、でも、わざわざ註を入れなければならなかったというのは、その用法を知る人間が少なくなっているということでもあろうと思います。
☆第六問 楽典に記されている説明と実際の演奏法が相当食い違っているものはどれか。
1。スタカート・・・音価を二分の一に
2。Una Corda・・・左ペダルを使って
3。フェルマータ・・・音価を二倍ないし三倍に
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2は問題ない。3は若干の問題があるが、実質的にはこの表現で大半のフェルマータが適合する。
1は大問題です。まず記号論的に申しますと、「違う記号には違う意味がある」これが大原則です。四部音符のスタカートが八分音符というのであるならば、初めから八分音符と書けばよろしい。わざわざスタカートとしてあるからには何か別の意味があるわけです。
園田高弘さんは「スタカートには鞭で打つようなそんな感じがある」と確かおっしゃってました。
私の存じているさる作曲家の先生は「スタカートは音価を二分の一にするというのは間違いだ」と断言なさってます。ということは少なくともその先生の作曲した曲についてはスタカートを二分の一の音価で弾くのは誤りになります。
とどめを一つ
バッハが言っています。
「何も記していない音符は音価の二分の一で弾くのがいい」
「スタカートは音価の二分の一」いったい誰だろね、こんなこと言い始めた奴は。
☆第七問 西洋音楽においてはリズムは常に流れているもので、決してとどまってはならない。しかし例外的に音楽の流れが停止される場合がある、それは次のうちどれか。
1。複縦線 2。偽終止 3。フェルマータ
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難問ですが、とりあえず正解は3です。前問でフェルマータには若干の問題があるといったのは、すなわちフェルマータとはそもそもは音楽の流れを一旦止めるということだからです。fermare(伊)停止させる、です。
1の複縦線の使用される箇所は、調の変わり目、拍子の変わり目、段落の変わり目に用いられます。調が変わろうが拍子が変わろうが、音楽の流れは途切れません。しかし段落の変わり目はどうなるのかというのが問題です。
楽譜を調べてみますとロマン派の作曲家の複縦線には、私の見た限り、音楽の流れを止めるような意味合いはないようです。その手の複縦線、そこで少し間を取った方がいいと思われる複縦線はバロック音楽に出てきます(特に初期バロック)。古典派ではやはりほとんど見受けられませんが、モーツアルトのK.475の幻想曲にその種の複縦線が4回出てきて、うち3回はフェルマータを伴っています。その3回は明らかに音楽の流れは止まっています。フェルマータのない1カ所が問題ですが、ここは私は停止なしの単なるリタルダンドで済ませられると考えます。
バロック音楽の場合、そもそも終止を示す以外のフェルマータの使用例が少ない。そして段落を示す複縦線が見受けられ、そこで間を取ることも可能です。おぼろげながら推測できることは、当時、記譜法自体が統一されていなかった時代、複縦線に段落の切れ目という意味において音楽を停止させることまで含めて記した作曲家と、単なる調や拍子の変わり目に複縦線を用い、音楽の中断にはフェルマータを用いた作曲家の両者がいるようであること。
そして時代が下るにつれて、複縦線は単なる切れ目、変わり目という程度の意味に落ち着き、音楽の停止にはフェルマータを使うという方向で作曲家の考えがまとまっていったということかなと思います。
少なくとも現在の用法では複縦線に音楽を停止させるという意味はないといえると思います。市販の楽典の書物にも、複縦線の説明を、単に曲の大きな変わり目と記しているものが半ばを占めます。
ところが、ややこしいことに、現代の作曲家の作品の中に複縦線で間を取った方がいいかなと思えるものがあります。ただ音楽の流れを止めろという指示と考えるより段落の切れ目を表している、その段落の切れ目で一瞬の間を取ったらいいという程度の感じです。
もちろんそういう作曲家の作品でも全ての複縦線でいちいち間を取るわけではない。
2も少し考慮の余地があります。偽終止は確かに音楽の流れを止める場合が多い、ただその場合は通常フェルマータを伴います。フェルマータなしで長めの音符が来ていたらどうなのか、というのが一番の難問。その場合も確かに音楽の流れを止めていると言えないこともないかもしれません。
しかしすべての偽終止がもちろんそうではないし、本来的に偽終止に音楽の流れを止める働きがあるとは言えないと思います(実はそう書いてある本もある、でもな、全ての偽終止でいちいち停滞してたら音楽になる訳ないよな)。
ということで1,2は7点くらいにしておきますね。
不正解のない問題になってしまった・・・むむむ。
この問題については藤田信路さんからご指摘をいただきました。厚く御礼申し上げます。
☆第八問
古典派の音楽は拍節を最も重視した音楽であり、従っていわゆるアゴーギグ、テンポの変化は多用してはならない、というのが少なくともプロの音楽家の間の共通了解事項であると思われます。さてそれでは、古典派の協奏曲のカデンツァはどうなるのでしょうか。
1。逆にアゴーギグを多用した方が良い。
2。通常より多用しても許される。
3。やはりアゴーギグを多用してはならない。
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協奏曲のカデンツァは、本来完全終止の前に装飾をつけることから始まった。その装飾が拡張され、その結果その間本来の音楽の流れは停止することとなった。(ほとんどのカデンツァのスタートにはフェルマータがあるでしょ)イタリア人の発明らしいです。要するにオペラのレチタティーヴォと同じ発想。今のようになったのが1710~1716年だとさる本に書いてあります。
ということでわざわざ拍節を止めている最中に、拍節を思い起こさせてはいけないのです。その曲のそれまでのテンポを使用しても良いですが、それが単調になってはいけない。あくまでも即興的に、すなわちテンポは絶えず変化するように演奏しなければならないのです。
従って正解は1。3はもちろん0点。2も0点。え? 厳しすぎる? 解りました、だったら2は1点。そこまでですよ。
☆第九問 西洋人と日本人のリズムの感じ方の違いに大きな影響を与えたとは断言できないものはどれか。
1。脳の違い 2。生活習慣の違い 3。言語の違い
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生活習慣の違い、これこそがまさにリズム感の違いを産んだ最も大きな原因であることは論を待たない。たとえば畳に座って生活する日本人のリズムはどうしても「よっこらしょ」型、すなわち止めては動き止めては動く、という感覚になります。これは西洋音楽をするときは致命傷になります。
言語の違いもまたリズム感の違いに大きな影響を与えているようです。たとえばアウフタクトは、日本語では理解できない。(その昔習った英語のimportantoとか、repeatとか、アクセントが二音節目に来る言葉が、すなわちアウフタクトの原型です)
脳の違いは角田博士の「日本人の脳」ですっかり有名になりました。ただあの本では日本人は虫の声などを雑音としてではなく意味のあるものとして処理をするということが述べられているだけで、リズムについては語られていない。
そこから類推されることは、まず第一にメロディ-感覚に日本人と西洋人に差があるという可能性です。それすら可能性としてとどまります。リズム感にまで脳の違いが影響するというのは、考えられないことではないものの、断言するにはやはりデータ不足といわざるを得ない。
ということで1です。2,3は0点。正答なしと答えた人は(なかなか反骨心のある人だなあ)5点、いや、その、人のいうことを素直に聞かない自立した心を愛でて7点にしておきましょか。
☆第十問 ピアノの練習に当たって最も大切な身体の部分は、その重要度から順番に
1。指、耳、頭 2。耳、指、頭 3。頭、指、耳
4。耳、頭、指 5。頭、耳、指 6。指、頭、耳
であり、各部分について最も肝要なことは、指は
1。筋力を付けること 2。速く回るようにすること 3。指先の感覚を身につけること
耳については、とりわけ
1。音、リズムの間違いを直ちに聞き取れること 2。自分の音をよく聴くこと
頭については
1。楽曲分析 2。イメージを思い浮かべること 3。隅々まで計算し尽くすこと
である。
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その1が4点満点、その2、その3,その4は2点、計10点です。
その1・・5です。(3が2点、4が1点にしておきます)
その2・・3です。
その3・・2です。
その4・・2です。
頭の重要性については、山岸麗子さんに「あたまで弾くピアノ」という著書があります。いい本です。
確かソ連の名教師リーベルマンが「ピアノのテクニックとは結局指先の感覚を身につけることだ」とかなんとか言っています。その言葉の意味すら若い頃の私には解りませんでした。その言葉を本当に理解できるようになったのは40を越えてからです。そしてそれは自分で演奏活動を続けていない限り永久に理解できない言葉です。
「自分の音を聴け」というのはピアノの先生ならまず誰でも言う言葉ですが、「自分の音を聴く」というのがそもそもどういうことなのか、生徒に解らせることは難しい。生徒は「そんなこと言われなくとも、自分の音ぐらい聴いている」と思っているからです。
楽曲分析は一つの方法として有効、しかしそれはイメージをより正確に喚起するための手段でしかない。結局演奏とは、音楽全体からひとつずつの音に至るまで、いかに正確にイメージしそれを音として表現するかということなのです。
イメージするのは頭、それをチェックするのは耳、それを音に変えるのが指ということなのです。
イメージせずに演奏するというのは、何を彫るか決めないで彫刻を始めるようなものです。ほとんど無意味であると言わざるを得ない。そして日本のピアノ界の最大の問題点は、そういう無意味な演奏が多すぎるということだと私は思っています。
<結果診断> 1問10点
80点以上・・拍手! 脱帽! 今後ともよろしくご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。
50~79点・・あなたは一流のプロ教師です。
49点以下・・がっかりすることはありません。知るは一時の恥、といいますでしょ。
<おまけ>
☆第一問 私の唯一の著書の名前は
1。どうすればピアノがうまくなる
2。どうすれば美人になる
3。どうすれば頭が良くなる
4。そんなん知るか
☆第二問 その本の出版者の名前は
1。素人(そじん)社
2。素人(しろうと)社
3。玄人(くろうと)社
4。玄人(げんじん)社
☆第三問 おそらく世界中でその本にしか記されていないノウハウは何か
1。ピアノの食べ方
2。ピアノの壊し方
3。ピアノのかつぎ方
4。ピアノの選び方
<解答・解説>
☆第一問
1に決まってるでしょ。ただしハウツー本ではない。わたしとしては「おしゃべりコンサートがやってきた」という題名にしたかったんだけど、出版者の意向でこうなってしまった。中身は爆笑エッセイ。これを読んで一度も笑わない人がいたらお目にかかりたい。
2と答えた人へ・・私、男なんですけど。
3と答えた人へ・・「どうすれば頭が悪くなる」という本なら書けそうな気がする。
4と答えた人へ・・正直な方ですね。私も自分が解答者ならこれにします。
☆第二問
1です。しろうと社と読まれて困るとぼやいてはりました。だったら初めからそんな名前にするなっつうの。
☆第三問
1です。