音楽関係の文章 旧Webサイト「Q&A」のページにあったもの
<指導方針について>
Q1.ピアノに向いていない生徒 Q2.コンクールの審査について Q3.頭の良さとピアノ
Q4.子どもをピアノ漬けにして良いのか Q5.先生を変わるべきか Q6.コンクールについての考え方
次に、膝の上で、左右のどちらかの手を強くもう片方を弱く押させる。
上のことをピアノのふたでする。次に鍵盤でする。
あと、心理的方法として、メロディーを実際に歌わせながら弾かせる。
Q1.ピアノに向いていないんじゃないかと思われる生徒っているんでしょうか。(才能がないんじゃないか、も含む)
考え方は色々あってどちらが正しいかについては意見が分かれると思います。私の今の考え方を一応述べておきます。
結論から言いますと私は①でいきます。理由は、
まず、ピアノに向いていない(才能がない)という判断自体が、絶対に正しいという断言が出来るものではない。ベテランの教師なら90パーセント以上正しい確率でこの判断は出来るでしょう。しかしそれでも100パーセントではない。教師の予想を遙かに超えて大きく伸びた生徒がいます。まるっきり伸びなかった(むいていないんじゃないかとおもった)子がある時を境に、突然変貌する、ということが稀にあります。
伸びない、練習しないということの理由は、根本的にはその生徒の内面に帰するわけですが、その内面が将来どのような変貌を遂げるかについては、予見できない、従って現在見込みがないとしても、将来も見込みがないという断言は出来ない。
専門家になりたいという希望があるのならば、その可能性がないと思われる場合、そのことを言わないというのはある意味無責任のそしりを免れませんが、趣味でする場合には、レッスンにきている以上は、そのレッスンの場を最も効果的に行おうとするのが教師のつとめであり、レッスンそのものをするしないについては、それは親もしくは本人が判断すべきものであると私は思います。
子供がレッスンに来ている理由は色々あります。教師から見れば「ピアノが上手になりたいから」来るというのが唯一正しい理由なのかもしれませんが、他にも「親が行けと言うから」「誰々さんが行っているから」「何となく」というのはもちろん(ここらへんがよくあるのは分かるでしょう)、「漫画を読みに」「家にいるとお母さんがうるさい」「先生とおしゃべりするのが好き」とか、まあそれは色々あるものです。
教師から見てとんでもない理由であっても、その生徒から見ればそれはまっとうな理由なのです。そしていかなる理由にせよ、一つの出会い、縁があってその生徒と時間を共有するわけであり、それを利用して、もちろん一番望ましいのはピアノを上手にして上げる、それが出来なくとも音楽を好きにして上げる、それが出来なくとも話を聞いて上げる、等々、教師に出来る最善を尽くすことがわれわれの役目ではないかと思います。
もちろんこれはピアノを上手にして上げることが出来ない免罪符に使ってはなりません。しかし良心的な教師ほど「ピアノを上手にすることが出来ない」と胸が痛むのですが、だからもうレッスンはやめだ、というのはやはり短絡だと思います。レッスンの必要性が完璧になくなれば向こうの方から来なくなります。
Q2.コンクールに入賞できませんでした。理由が全く分かりません。テンポを揺らし過ぎたのでしょうか。ごく普通に普通に弾いていた人が入賞しました。
端的に言えばまだまだ日本のピアノ界の歴史は浅い、それ故の歪みが審査にも生じる可能性が強い、ということでしょうか。
私と同年代もしくはそれより上の世代において、男女平等とは口先だけのことでした。そして音楽は伝統的儒教文化においては「歌舞音曲の類」とくくられるもので、男子一生の仕事に有らざるものとされていました。それゆえに能力のある女性にとって音楽は男性をはばかることなく自分の能力をフルに発揮できる職場でした。
ところで4,50年前は日本の音楽教育界はそれこそ3拍子を三角形に指揮する事を平気で教える程度のレベルの低いものであり、そしてその程度の教師から見て頭が良くてピアノを習っている女生徒達は皆素晴らしい才能の持ち主に見えたことは間違い有りません。そういう人たちが今の日本の音楽界の頂点に大体いるわけです。
問題はそういう人たちが、音楽を本当に好きだったのか、ということです。ピアノは上手だ、才能があると言われた、事実有るのかもしれない、しかし音楽を好きだったのかどうか、女性の社会進出が広く認められていたのならともかく、そうでない時代において、「まあ才能があると言われるんだから、他にいい仕事も余りなさそうだし、この方向にでも進もうか」と消極的に音楽を自分の一生の仕事にした人が相当数いるのではなかろうかと思われます。
音楽を楽しむことを知らずに、それが好きでもないのに、それを職業にしてしまった方は、音楽の根本にあるものが結局眼に見えない、あるいは感じることが出来ないのです。
私の師は関西の名物爺さんと呼ばれた方でしたが、あるコンクールでサンサーンスのエチュードを完璧に弾いた子どもに50点と採点したそうです。その生徒の先生(も審査員)から驚きと抗議の声があがり、「ミスなしにまあよう弾いたから50点やったんや、普通やったら30点、音楽は何にもありまへんがな」
いかに指が良く回り、いかにミスがなくとも、音楽というものはそういうものとは無関係なところに厳然としてあります。これは有名なエピソードですが、さる国際コンクールで日本人出場者が、最終予選でブラームスのパガニーニ変奏曲を完璧に弾いてのけて審査員一同唖然としたそうです。しかし彼は落ちました。ある審査員曰く「彼は完璧だった、しかし音楽ではなかった」
審査は人間のするものですから、当然審査員の主観が入ります。そしてけしからぬ人間が世間に時々いるように、審査員にもけしからぬ人間が時々いるのもまあ当たり前のことです。私の知っているさるピアノの先生は、「自分の生徒にええ点数付けるのは、それは人間として当たり前のことや」と公言していました(わたしはそういう人は審査というものをすべきではないと考える人間ですが)。ただそういうのは、ここでは考えないことにします。
良心的な人間ほど、審査を客観的にしたいと思います。ところが音楽とは極めて主観的なものです。このギャップをどうするか。日本の先生は、どちらかといえば良心的な人が多いだけに、そして自分の中の「音楽」というものに確固たる自信を持っていないがゆえに、よけいに客観的なものだけで審査をしようとします。すなわちミスがないかどうか、一般的解釈と異なった演奏をしていないかどうか、そういったことです。
外国の先生には先ほどのギャップというものがおそらくありません。「音楽とは主観的なもの」であるのは常識であり、そして自分の中に何百年の伝統の上に立った「音楽」というものを見る目が確かにある、ということは自明のことだからです。もちろん個人によってその思う「音楽」に微妙な差はあるでしょう。だからこそ複数の審査員が必要とされます。しかし「音楽」そのものを感じない審査員など彼らにはおそらく想像の埒外なのです。
近年海外留学が当たり前となり、本物の「音楽」を解する人たちがどんどん増えています。日本の今の没個性的な状況にもすこしずつ変化が見られてはいるような気がします。ただまだまだ国内のコンクールにおいては、あまり個性的な解釈は禁物であることは間違い有りません(あまりにも個性的ですと国際コンクールでもダメです)。
Q3.頭の良さとピアノの巧さは比例するのでしょうか。
頭の良さが関係してくるのは、まず読符の速さです。ということで特に年齢が幼いほど、一般的に言って頭の良い子は進度が速いです。
それともう一つ、これは実験的データがあるわけではなく、ピアノ関係者の間で昔からささやかれていることですが、頭の良い子(計算の速い子)は指の回りが速い、という見解があります。断言は出来ませんが、私の経験でもある程度の相関関係はありそうです。
ただし符が速く読め、指が速く回っても、それは「音楽」の本質的部分とは全く関係がありません。リズム感とか音感とかは音楽の本質部分に関係がありますが、それらは頭の善し悪しとはまず無関係です。そしてある種のセンス、いわゆる音楽的と称されるもの、も頭の善し悪しとは無関係な部分にあるようです。
ということで子どものうちは、頭の良い子が大体速く進みます。そして頭がいいということは理解力も良いということで、そこそこうまく聞こえたりします。ということで何となく「頭がいいとピアノもうまい」と結論づけたくなりますが、先に述べたように、本質的には誤りです。
私の生徒でワルトシュタインまで弾いた子がいますが(レベル23くらいでした)、音感・リズム感ともに悪く頭の良さだけでそこまできたという感じ、聞く人が聞けばやはり、頑張ってはいるが決してうまいとは思えないものでした。逆に頭はあまり良くなくレヴェルの15くらいで止めてしまいましたが、センスのある子がいました。発表会などでは光っていました。
ただしピアニストになろうというのなら、頭の良さは必要条件になります。必要十分条件ではありませんが。
Q4.子どもが寝る間も惜しんでピアノを弾いていますが、子どもの人生をピアノ漬けにしてしまって良いものかどうか悩みます。
そうではない、子どもが自発的に練習をしている、という場合。
①真実、子どもが自らの意志でピアノに向かっている。
②子どもは自発的にピアノに向かっているが、実はそれは親の願望をキャッチして、「いいこ」を演じているだけで、子ども自らの内的欲求ではない。
①②の見分けをすることが肝心かと思います。その見分けは、注意深く観察するなら出きるはずですが、ただ親の場合、自分の願望を観察に重ねてしまい、冷静かつ客観的になかなか見ることが出来ないかもしれません。
②の場合は微妙にサインが出ます。ピアノに向かうのは親が声をかけてからの場合が時々あるとか、レッスンに行く日に身体的不調が時々起こるとか。
真実①の場合であるならば、ピアノ漬けになることがその子の幸せである、ということですので、それで構わないかと思います。大体ピアノ漬けはまずいということになりますと、世の中のピアニストという人種はほとんど消滅してしまうことになります。
仮にピアニストにならずとも、少なくともピアノ漬けになっていたそのとき、子どもは充実した幸福な人生を送っていたわけですから、ピアノ漬けになっていなかったら他に何か有益なことを子どもはしたかもしれないという、単なる幻想もしくはただの可能性、と比べてみる必要は全くないと思われます。
Q5.今ついている先生はいわゆる「街のピアノの先生」で、教材研究などもあまりなさってる様子はなく、発表会を聞いても、それほど上手な生徒さんがいるわけでもないです。他の先生に替わったほうがいいのでしょうか。うちの子供は順調に伸びています。
その先生の力量のほどを測ることはまず素人には無理です。先生を替わってみれば以前の先生と比べて、自分の子供にとってどうであるか の判定は可能でしょう。しかし替わってみて、前より良くないから戻ろう、ということもちょっとしづらいでしょう。
他にいい生徒がいないことが、その先生の責任であるのかどうかはわかりません。たとえば私はレベル20を超えている生徒が 10人近くいた時期もありますし、今のように一人しかいないなどということもあります。逆にいい生徒が集まっているということが その先生が優れた教師であるという証明にはなりません。肩書きがあれば実力に関係なしにたぶん集まります。 数年前、さる有名な先生からうちに移ってきた生徒の親が、しばらくたって、こんなことをおっしゃったことがあります。
前の先生はとにかく「練習が足らない」と「だめ」としかおっしゃらなかった。だめなのはわかってるんですけど、どうだめなのか どう弾いたらいいのかということを、一度もおっしゃってくださらなかった。
その子はソルフェージュをまったくやってもらっていなかったようです。頭がいい子で読譜は問題なかったですが、 音感は絶望的についていませんでした。もちろんうちに移ってきた段階で、音感をつけることの出来る年齢ではなくなっていました。 その先生が少なくとも入門者の指導に関しては落第であることは間違いないでしょう。
いうまでもないことながら、肩書きと実力を兼ね備えた先生も大勢いらっしゃいます、というかその方が多いはずです。
そもそもすべての生徒に良い先生というのはなかなかいないものです。また少々実力が劣っていても、熱意を持って教えてくださる先生の方が、 実力があってもいい加減にあしらうだけの先生よりはるかにいいことは自明のことです。そして何より先生を替えるというのはどう転ぶかわからないばくちなのです。
今順調に伸びているのであるならば、少なくとも現段階においてはその先生は他の子はともかくその子にとっては良い先生なのです。 うまくいっているものをわざわざ捨ててしまうというのは、決してお勧めできることではありません。
先生を替えなければならないのは、長期的スタンスで見てどうもあまり伸びていないのではなかろうかと思われるときです。
Q6.コンクールについてどう思われますか。上達させるにはやはりコンクールに出した方が良いのでしょうか。
まず、その一方の極を申しますと、音楽とはそもそも「競争」というものとは相容れないものである。それは音楽の本質からして そうなのであって、コンクールなどはもってのほか、音楽を汚すものでしかない、というのが最極端な論でしょう。
ただ、残念ながら人間の現実というものがあるわけで、現実を無視した論というものは、やはり成り立たない。現実の一つは 人間は競争する(させる)ことが好きである、ということ。そしてピアノ教師として無視できない現実としては、コンクールに出すと 生徒が練習する、という事実です。
私も含めて大半のピアノ教師が、理想と現実の間をうろうろとさまよい歩いているのではなかろうかと思います。
最も常識的な結論は、コンクールを上手に利用する、という言葉に尽きます。生徒に序列をつける、審査をする(してもらう) ということを目的とせずに、集中的に練習させるための一つの手段として、あるいは他流試合といいますか、見知らぬ人たちの前で 演奏させるということ自体を目的として、コンクールというものを利用する。結果は後でついてくるもので、当初から 結果を狙うのではないということでしょう。
コンクールが現に存在し、そして熱心な親ほど、そういうコンクールに自分の子どもを出してくれる(いい成績を取らしてくれる) 先生を評価するという現実が存在する以上、ピアノ教師はコンクールを無視することはなかなかできません。ただそれでも、 本来、音楽とはコンクールというものとは次元を異にしているはずである、という認識だけは捨てたくないと私は思っております。
教師それぞれに、色々な考えがあるでしょうが、自分の考えを、それなりに生徒にあらかじめ伝えておくのが望ましいかと思います。 結果が出なくて慌ててフォローするのではなく、初めから結果は問わない、受からずとも良し、受かればなお良し、ということで。
なお、生徒がプロを目指す場合は、より現実に配慮した対応をとらざるをえないかと思います。