2001年に京都新聞で連載していた文章
ファンだというだけでかくのごとき目に遭う。ましてそれを職業としているとなると、もうほとんど人間とはみなされていない。実は私はクラシック音楽を生業としているが、たとえば数年前に次のような体験をしている。
三重県の中学校に「おしゃべりコンサート」に行く途中、栗東の1号線と8号線の分岐点でお巡りさんに旗を振られた。シートベルトをしていないとのことであった。たまたま婦警さんであったが、職業を尋ねられ、私が「ピアニスト」と答えると、目を大きく見開いて「わあ、そんな人初めて」と1オクターブ半ほどうわずった声で私を見つめたものである。
あれは憧れのスターに巡り会えたまなざしであったのか、動物園の珍獣を見るまなざしであったのか今でもよく分からぬが、サインも求められなかったし、反則点をおまけもしてくれなかったところから考えて、おそらく後者なのであろう。
妖怪変化であるとか火星人であるとかいう誤解は受けていないと思うが(私はタコとも呼ばれているが)、霞を食って生きていると思われている節は多々ある。
ずいぶん前のことだが、草津市の合唱祭で、合同団体の指揮をしたときその練習の謝礼が一回千円であった(これは草津市が千円しか出さなかったのか、それとも草津市は一銭も出さず、さすがに気の毒に思った草津市合唱連盟が、ない袖を振るって千円出してくれたのかは分からない)。
また、びわ湖ホールが完成した際、私はちょうど県の合唱連盟の理事をしていたが、県からオープニング公演について要請があった。早い話が、県民のために作ってやったのだから、県民は当然無償で協力すべきであるということであった。
私は本来気が弱く、お偉い人を前にすると言いたいことの十分の一も言えない人間であるが、さすがに呆れ果てて、理事会で協議し、県合唱連盟担当理事として知事に質問状を送った。
行政が文化活動を支援する最も効果的・実際的な方法は、文化活動を行っている個人及び団体にお金を出すことである。しかるに文化活動に無償で協力しろということはまさに正反対、つまりそれを職業としては認めていないわけであり、滋賀県の音楽家にとって県のそのような差別的な姿勢は到底容認することが出来ない。
今回だけ特別だというのであるならば一つお訊ねするが、県内の建設業者に、今回だけ特別にびわ湖ホールを無償で建ててくれるように協力要請をしたのかと。
結局知事からの返答はなく、県からの協力要請は沙汰やみとなった。
要路の方々には、とりあえず次の二点を認識していただければと思う。
①ホールを建てて潤うのは建設業者であって音楽家ではないということ。
②音楽家も人間であり、通常一日三度の食事をし、たまにはおやつも食べるのであるということ。
「あほか、お前は」
「大きなお世話」
「自分がしたら?」
すぐ思い浮かぶ私の返答は以上の三つである。そのほかの返事は座禅でも組むか滝にでもうたれるかしないと思いつきそうにない。
子供といえど一個の人格である以上「勉強しなさい」と言われれば、特に私の子供であるからには、同じような返事を思い浮かべるに違いない。単に口に出さないだけのことであろう。
しかし人間の一生は勉強である。それは間違いのない事実であると私は認識している。ならば「勉強しなさい」という言葉を使わずに子供を勉強させるにはどうすればいいか。
父親の威厳が通用する五歳ぐらいのときにしっかり言い聞かせておく。「人間は一生自分を磨かなければならない、たとえば勉強」と。
上の息子には一応成功したようであった。下の娘には怠ってしまった。十歳くらいから「勉強は嫌い」と言ってはばからない。
困ったものであるが時々「勉強しよう」ともちかけて一緒に勉強をする。この年になって何で鶴亀算をせなあかんねやと思いつつ。
勉強の合間に遅ればせながら仕込む。「人間は一生勉強なんだよ、学校の勉強だけじゃない、お前の好きなパソコンだって勉強、フルートだって勉強」。
先日次のような報告があった。
女房の誕生日に私が夕食を作ったのだが、女房が後で娘に訊いたらしい、○○ちゃんも手伝ってあげたのと。娘の返事は「パパは料理の勉強してるんでしょ。何でパパの勉強を私が手伝わなあかんの」というものであったという。むむむ、何かこちらの意図と微妙にずれているような気がする。
と、息子が今度の期末試験で全く勉強しなかったようだ。「勉強する意味が分からなくなった」と一人前のことをほざいているらしい。
勉強する意味ねえ、人生の意味よりはやさしい問題ですかね。その昔中学生の家庭きょうしをしていたころ、勉強の意味については必ず言ってやったものだ。不思議なもので、そういうことを納得させると成績の上昇が早かった。
「数学・理科は論理的思考能力を身につけるため。普通の人間は方程式も関数も学校を出たら使うことはまずあらへん、だからそれ自体には大した意味はない。しかし論理的に考えるということに意味があるんや。たとえてみれば、糸がこんがらがったときに丁寧にほどくか、はさみで切ってしまうかの違い。将来結婚しようかというときにさいころで相手を決めるか、考えて考えて考えて相手を決めるかの違い。ひょっとしたら大して変わらんかもしれんが、論理的にきちんと考えた方が多分少しはましな結果が出るやろうというこっちゃ。国語は、日本人であるからには日本語が使いこなせんと話にならんやろが。歴史や地理は日本人として当然の常識、知らんと一生恥をかきまくることになる。英語は鎖国でもせん限り今後ますます必要になる」
中学生相手ならこれで十分だと思うが、この私のひねた遺伝子を引き継いでいる息子が、さて素直にうなずいて再び勉強するようになるのかどうか。ああ頭が痛い。
何枚持っているのか数えたことはないが、LPが4~500枚。CDは少ない、100枚未満である(クラシック関係の話)。CDが優勢になったときLPの針を買いだめしておいたおかげで、CDをことさら買う必要がない。
SPとやらを聴いたことはないが、話によれば雑音の合間に音が聞こえてくるようなものであったという。そのか細い音を聴きながら、その昔の愛好家たちは感動に胸をふるわせていたわけである。その感動を支えたものはつまり想像力であったと思われる。一の音を聴きながら十の音を想像していたわけである。
LPを初めて聞いたとき、皆びっくり仰天したという。「ほとんど生と変わらない」というわけである。もちろん欠点はあった。再生する度に音が劣化する。極端にいうと「生と変わらない」のは最初の一回だけである。
CDとなって音質の劣化がなくなった。つまりいつ聴いても「ほとんど生と変わらない」のである。その昔再生音楽を聴くのに必要であった想像力は完璧に無用なものとなった。
そして今音楽は、どちらかといえば生で聴くのは特殊でありCDで聴くのが普通である、という状況になっている。よく言われることだが、生演奏を初めて聞いて「CDと違う」と文句を言う人が少なからずいらっしゃるらしい。
クラシックの生演奏にはまず確実にミスがある(私などミスだらけである)。他にもさまざまなもの、拍手の音も、せきばらいも、ざわめきも、その他その会場にいたものしか分からない一種独特の雰囲気がある。それら全部ひっくるめて、それがつまり生の「音楽」なのである。
LPやCDは素晴らしい。再生芸術という名前を冠することが出来るくらいである。だが、それらはコミュニケーションの一つであった本来の「音楽」とは微妙に異なる芸術である。そして再生芸術はミスを含めた生演奏の雑音部分をきれいに取り除いてくれるが、音楽を音楽たらしめている部分、微妙な音色の変化、演奏者の呼吸といったようなものまでもカットしてしまう。ちょうど浄水器が塩素や有害物を取り除いてくれるが、人間に必要なミネラルまで取り除いてしまうように。
私ごときの拙い演奏でさえ感動して下さる人がいる。一流の演奏家の生演奏に接すればなおさらであろう。たまには音楽会に足を運んでみませんか。
ところで小泉さんがブレイクしている。あれは多分生の魅力だろうと思う。これまですり切れたテープで同じ曲ばかり聴かされて(たまにテープの表紙だけ替えて)うんざりしていたところに、突然数十年ぶりの生演奏がとどろき渡っているのである。その斬新さに皆拍手を送っている。
ただし、演奏そのものの評価はこれからの話である。願わくは二十一世紀初頭を飾るにふさわしい名演をお聴かせ下さいますように。
ベートーヴェンといえば、おそらくだれ知らぬもののない人物である。私も子供の頃に二冊伝記を読んだ覚えがあるし、大人になってからまとまったものは読んでないが、クラシック関係書籍では必ず目にする名前であり、これまで仕入れてきた情報量だけでも相当なものであったはずである。
にもかかわらず「へえ」と驚くことがしきりである。
たとえば晩年のベートーヴェンはあまり出来の良くないカールという甥に悩まされた、と私の記憶にはあったが、どうも真相は逆で、老醜をさらしたベートーヴェンがカールを悩ませたという方が正しいらしい。
またカールの母とカールの養育権をめぐって訴訟を争っているが、それがベートーヴェンの勝訴に終わったのは、彼の主調が正しかったからではなく、彼の崇拝者に権力者が多数いたからであるということなども、耳新しい事実であった。
ベートーヴェンは生きているときからほとんど伝説上の人物となっていた。誤解を与えやすいその言動、奇行にもかかわらず、その人間的迫力、そして何よりもその音楽によって、年とともに彼の崇拝者は増え、晩年には「ベートーヴェン詣で(ウィーンを訪れた著名人が何とかしてベートーヴェンに会おうとしたこと)」なる言葉まで生まれた。
ベートーヴェンの伝説は「楽聖」という言葉に如実に示されている。
「聖」という言葉を冠されている音楽家は私の知る限り他にはいない。
それは音楽家として極めて優れていたというだけにとどまらない、人格的な偉大さをも賞賛している言葉である。
ならばベートーヴェンにとって、あまり芳しからぬ事実が明るみに出たことで「偉大なる音楽家」というベートーヴェン伝説はひっくり返るのかといえば、全くそのようなことはない。「そんなこともあったんだなあ」という慨嘆を誘いはしても「偉大なる音楽家の悲しむべき過ち」ということで済んでしまう。「偉大なる音楽家」という伝説の本体には傷一つつくことはないのである。
ここらへんが権力者の伝説と違うところである。生前神のごとくあがめられていたスターリンはヒトラーと並ぶ世紀の極悪人になり果てた。レーニンや毛沢東もまたその評価がどう転ぶか危うい。
権力者の場合には自分で伝説を捏造する場合が多々あるだけに、その死後評価が一変することはやむを得まい。ベートーヴェンの伝説は生前の彼の周辺から勝手に湧き起こったものであるだけに、彼の死後も生き続ける。
しかしベートーヴェンの伝説がその根本において全く揺らぐことがない最も大きな理由は、その作品が残されているからである。彼の作品が演奏され人々に感動を与え続けている限り、ベートーヴェン伝説は不滅である(巨人軍の百倍くらい不滅である)。人々の感動こそがその伝説に新たな血肉を与えているのである。
生者は嘘をつく、死者は何も言わない。しかしその作品は遙かなる時を超えて、われわれに何かを語り続ける。
長調と短調とでは大きく異なる。ほとんど音楽に無縁な方でもその差に気づく。ところで同じ長調でも種類によって微妙に色合い?が異なる。
最初にこのことを指摘してくれたのは今は桐朋で教えている5歳年上のはとこであった。私が小学の5年か6年だったと思う。私は頭の中で各調の音階を並べそして納得した。
それからしかし私は大いなる疑問に悩まされることになった。ベートーヴェンは絶対音感を持っていなかったのであろうか、という疑問である。
田園交響曲はヘ長調で作られている。しかし私の音感に基づく各調の色彩感によれば「田園」はホ長調もしくはイ長調でなければならない。ヘ長調は断じて「田園」という興趣を表すにはふさわしくない。
この疑問が解決したのは20歳を超えてからである。当時といまとでは音の高さそのものが違っていたことを知ったのである。ベートーヴェン時代のヘ長調は今のホ長調とほぼ同じなのである。
ときどき「ヘ長調は田園にふさわしい調性」とか何とか書いてある文章を見かける。どこにでも知ったかぶりをするものがいる。
モーツアルトのピアノソナタにはハ長調のものが多い。これも今の音高からすればほぼロ長調である。ハ長調とロ長調の違いはたとえてみれば木綿と絹のような違いである。ロココ趣味のモーツアルトには当然ロ長調の方がふさわしい。
しかしモーツアルトを弾くために今のピアノを半音低く調律するわけにもいかない。きめの粗いハ長調を奏でながら指先で出来るだけエレガンスに弾くしか手がない。
ところで絶対音感を持っているものは音楽家の中でも少数派に属する。まして各調特有の色彩感まで感じ取れる人間がどれほどいるのか、極めて少数であろう。「ヘ長調は田園にふさわしい」などという文章がまかり通っていることからもそれは分かる。大多数の音楽家がその文章の誤りに気づかないからである。
しかし、私が「田園にヘ長調はふさわしくない」と言う。別の音楽家が田園にヘ長調はぴったりだ」と言う。二人とも自分にはそういう感覚があると主張する。さて部外者にどちらが正しいか判断できるか、これは出来ない。
私はとりあえずベートーヴェンと同じような感覚を持っているというところまで証明することは出来る、しかしベートーヴェンの感覚が唯一絶対の正しいものだという保証はない。極端に言えば「俺はほんまにそう感じるんや」と言われればもうどうしようもない。私だって「そう感じる」だけだからである。
99、9パーセントの人間、同業者の多数にさえ理解できない感覚を持っている・・これは稀少価値かもしれない、しかしひょっとしたら実はほとんど無意味なのかもしれないと思うことがある。
ちなみに私は耳は良くない。電話で相手の名前を正しく聞き取れる確率は二分の一くらいだし、女房が何を言ってるのかよく分からないことはしょっちゅうである。
聖と俗という言葉があるが、われわれの生きているこの社会は「俗世間」というくらいだから俗に決まっている。だったら聖はいずこにありやといえば、人の来し方行く末にあるのであろう。
残念ながら生前の記憶はない。しかし聖なる世界の痕跡は確かにこの身に残っている。良心とか倫理観とかいう奴である。さほど「清く正しく美しく」生きているわけでもないが、まあ痕跡の痕跡くらいは残っているのだろう。
そういうものは後天的な教育その他によって身につけられるものであるというのが昨今の通り相場であるが、いかがなものであろうか。
仏教では一人一人に仏性が備わっているという。神道では神の御霊が一人一人に分け与えられているという。つまり聖なる世界の痕跡を残している、もしくは聖なる世界に通じるものを人間は持っているという教えなのであろう。
唯物論が根本的に始末の悪いのは、唯物論からは倫理が生じる余地がないことである。せいぜい他人の迷惑にならない、くらいしかいえない。そんなものは小学生の心がけであって、一人前の大人の持つ倫理観では到底ない。他人の迷惑にならなければ何をしても良いのか、援助交際は誰の迷惑にもならないが構わないのか。
「宗教」とは字義をたどれば「根本的な教え」という意味である。しかし世界中のほとんどすべての宗教が形而上学的な教義を必ず含む。根本的な教えの依ってきたる由縁はこの地上のものではないというのが、世界中の人間の共通了解事項であったということではないのか。
この俗世間において聖なる世界に通じていると思われる職業が宗教家である。
しかしお布施の額によって戒名に差があったりするくらいだからその世界にも経済原理(これぞ俗の原理である)が相当幅を利かせているようである。俗世間に生きる上はある程度はやむを得ないことなのであろうが、度を過ぎるとタダの商売人と変わらなくなり、余人の尊崇は集まらぬ。余人の尊敬を受けない宗教家など、ピアノを弾けないピアニストに劣るとも勝らない。
ところで音楽家も実は聖なる世界と俗世間の狭間に生きる人種なのである。
ギリシャの昔から音楽は宇宙の調和を示すものであるという考えがあった。優れた音楽はこの世のものであるというよりは、聖なる世界からの贈り物、聖なる世界の写し絵のようなものなのである。
日本の事情は詳しくは知らぬが、その昔、芸能はほとんど神事であったはずである。今でも地方の神社の祭りなどで芸事が行われる。芸の世界は聖なる世界に近いものであるということが、やはり洋の東西を問わず共通の了解事項なのであろう。
ということで芸人の端くれたる私めも俗世間の原理原則には疎いのである。必然的に貧乏にならざるを得ないのであったということを家族への言い訳にして、この連載を終えることとしたい。