あるピアニストの一生

1990/7/22(日) ピアノ・フルート発表会 @草津市社会福祉センター 大ホール 13:00開演

<第1部>

1.ドレミのうた(ロジャース)
2.追憶(スペイン民謡)、大きな古時計(ワーク)
3.ピアノコンチェルトより(グリーグ)
4.ちょっとした悲しい気分(佐藤敏直)、セブンセブン(田所政人)
5.金の星(ストリーボッグ)
6.マーチ(ルモアーヌ)
7.牧歌、アラベスク(ブルグミュラー)
8.森の教会(ピッツ)
9.星のワルツ(プレイナード)
10.マリオネット(ローデ)
11.荒れはてた舞踏室、とんぼ(ギロック)
12.古いフランスの歌(チャイコフスキー)、小さな歌(ハイドン)
13.舞曲(有馬礼子)
14.ソナチネOp.36の1 3楽章(クレメンティ)
15.勇敢な騎手、楽しき農夫(シューマン)
16.「軍艦ピナフォア」より(サリヴァン)
17.ソナチネOp.55の2 1楽章(クーラウ)
18.プレリュード 変ホ短調、ホ短調(芥川也寸志)
19.春のソナチネ(ハントロック)
20.ソナチネ(ギロック)
21.アルプスの夕映え(エステン)

<第2部> れんだん・連弾・Duetto

1.猫ふんじゃった(作曲者不明)
2.オブラディ・オブラダ(P.マッカートニー)
3.エーデルワイス(ロジャース)、森へ行きましょう(ポーランド民謡)
4.ユーアーマイサンシャイン(ミッチェル)、大脱走マーチ(バーンスタイン)
5.わらの中の七面鳥(アメリカ民謡)、アマリリス(フランス民謡)
6.びっくりシンフォニー(ハイドン)、きよしこの夜(グリューバー)
7.踊り明かそう(レーヴェ)
8.ウンパッパ(バート)
9.クシコスポスト(ネッケ)
10.アイネ・クライネ・ナハトムジーク 1楽章(モーツァルト)
11.交響曲NO.5「運命」1楽章(ベートーヴェン)

<第3部> フルート 
1.サンタルチア(イタリア民謡)
2.メロディー(ノブロー)
3.「歌の翼」による幻想曲(シュテックメスト)
4.ソナタK.13

<第4部>

1.エコセーズ(ベートーヴェン)
2.ソナタHob.32 1楽章
3.春の歌(メンデルスゾーン)
4.タランテラ(ヘラー)
5.変奏的練習曲(中田喜直)
6.プレリュードOp.3の2(ラフマニノフ)

講師(fl)  ファンタジー・メランコリック(ライヒャート)
客演   ソプラノ独唱 この道、かやの木山、鐘が鳴ります(山田耕筰)ほか
田所政人 幻想即興曲(ショパン)、ハンガリア狂詩曲No.6(リスト)

生徒数 pf27人(昨年-6+6)、fl4人

 場所が戻ったが、内容構成は去年の大刷新を踏襲している。「びっくりシンフォニー」って驚愕のことですか?ちょっと笑ってしまった、言い方でこうもニュアンスがかわるもんですかね。
 少し前からであるが、ビートルズなどポップスがちょいちょい入っている。父はポップス(当時の言葉では「歌謡曲」というのかな)自体は好きだったようだが、ピアノで生徒に弾かせることはそう多くなかった。好きな生徒には2年に1曲くらいやらせる、って感じ。やはり音楽をやるからには、10年か20年したら忘れ去られてしまうような曲を弾かせるよりは、人間が人間である限り変わらない、心の機微であったり精神の奥深いところを捕まえうるような、第1級の芸術作品に触れさせることが肝要と思っていたようである。
 自分も中学くらいまで、ピアノを習うというのはクラシックを弾くこととほぼイコールであると、みんなそういう風に習うものだと思い込んでいた。ところがである。ピアノを習っている友だち数人(比較的お育ちのいい子が集まる中学だったので、男の子でもピアノをやってる子がけっこういた)で今何の曲を習っているかという話になったとき、「曲は自分で好きな歌手の曲をリクエストする」とか「次はミスチルを弾かせてもらう」とか「ロックバンドの曲を弾き語りする」とか、しまいには「ゲーム音楽を弾いている」なんて言う友だちもいて、びっくり仰天したことがある。挙げ句の果てには「家にピアノはない、キーボードで練習していく」という子さえいた。
 確かに、当時の私も中学生の男の子らしく、ポップスにもテレビゲームにもハマっていたので、バンドスコアやゲーム音楽の楽譜を買ってきて弾いたりはしていた。しかし、それはあくまで自分で勝手にやるものであって、ピアノの先生にわざわざ教えてもらうようなものだと思ったことは全くなかった。いや、そうじゃないか、逆かな、友だちがポップスばかり習っていることにびっくりしたのではなく、ポップスばかり教える先生がいるということに驚愕したのである。ピアノの先生という存在は、音楽の高尚な部分を生徒に伝える役割というか、自分一人では近寄りがたい崇高なるものの味わい方を指導するためにあるのであって、そういう大衆の娯楽的な音楽の楽しみ方を教えるのは、それは音楽家たるものの役割ではないと思っていた。父の音楽家としてのスタンスが、私のピアノ教師像をしてそういう水清無魚たるものに形成せしめていたわけですが、その像が突如磊磊と崩れ落ちたのでありました。
 曲りなりにも社会に出て、世界の広さを知った今では、クラシックを習うという発想なしにピアノを習いに来る生徒が相当数いるという事情、あるいはピアノを喜んで積極的にしっかり練習してくる生徒という存在がそもそも希少種であるという事情、また先生側も昔ちょっとピアノをやっていたから家計の足しにでもするかという程度の動機と腕前でピアノ教師をしている方が相当数いるという事情、は理解します。それは個人の人生に属する事情でありますから、私に批判する資格はありません。というかそれを言うなら私だって、理系の大学を出てもないのに偉そうに数学を語っている虚栄の輩であります。「物事の真髄を伝えられる教師と受け取れる生徒」という想定がそもそもイデア的な、極限値的なものでしかないのでしょう。ただ個人的には、やはりせっかくピアノを習うのなら、何百年の篩いに耐えた音楽的完成度をもつ一流の作品に触れてほしいと思うし、教える側は、何か物事を人に教えるというのは、その物事の誰にでもわかりやすい表面的な悦楽や利得だけでなく、苦労して奥まで掘ってみて初めて味わえる、そこに何か大きなものが存在するという感覚を、何とかして体験させてあげようと力を尽くすことであると、そのあたりを自戒せねばならないと思うわけです。

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