あるピアニストの一生

原発論(2011/4/4)

 3月11日、マグニチュード9.0という日本歴史上最大の地震が起こった。そして福島第一原発が大事故を起こした。まさに「有史以来最大の危機」である。
 事態は、今、一応の小康状態を保っている。しかしこれは綱渡り的状況であり、この状況はかなり長期にわたって続くものと予想されている。そして長期にわたる綱渡りの最中に綱から落っこちてしまう可能性も充分にある。
 この危機が天災か人災か、直接の原因は何か、東電の過失は、初動のミスは等々さまざまな疑問がある。私はまったくの門外漢であるからしてこれらの疑問に対して万人の納得する答えは出せるはずもないし、また出そうとも思っていない。今後多くの方々がこれらの疑問を解き明かしていくであろうと思っている。
 私がここで主に書こうと思うのは、もう少し根本的な疑問である。そしてその疑問に対してのスピリチュアル系人間からみた回答である。(以降「スピ系」と略することにする)

その1 そもそもなぜ原発を立てたのか

 「安全」というものについて考えてみよう。たとえば乗用車という乗り物は99%安全である、と仮にする。(この言い方は科学的な厳密さを欠いているが、主要な論点ではなく単に話の進め方の問題なので御容赦願いたい)で、自動車で大事故が起きた場合平均して1人死ぬとこれも仮にしておく。
 すると、大事故が起こると平均して100人の人間が死ぬ乗り物の場合、乗用車と同じ程度の人的被害にするためには99.99%安全であることが要求される、という計算が可能である。まったく同様に大事故が起こると1000万人の人間が死ぬような施設の場合は、99,9999999%安全であれば、乗用車と同じ程度の人的被害になるという計算になる。
 で、おそらく、原発はこういう計算に基づいて建てられている。これがつまり、少しばかり頭のいい人間(数字に強い人間といってもいい)の陥る罠である。(実際はそんなに安全に作られていないという声もあるだろうが、それもここの議論には関係ないので無視する)
 100%ということは、これはそれこそ絶対にない。人間にできることは、9の数字を限りなく増やすことだけである。さっきの計算では9の数字は9つ並んでいる。これを一つ増やして10並べるためには、膨大な費用がかかるはずである。さらにこれを一つ増やして11並べるためには、もっととてつもない費用がかかるはずである。ということで、どこかで対費用効果というものを計算して打ち切ることになる。
 計算上は、乗用車と同じ程度の人的被害が生じる確率でしかない。それは決して間違いではない。
 ただそれは具体的に分かりやすくいえば、「交通事故では毎年一万人死ぬ、千年だと累計一千万人になる。原発事故はまず起こらない、しかし千年に一度一千万人死ぬ事故が起こる」ということなのだ。
 年間一万人の死者が起こる交通事故はもちろんその被害者にとっては悲惨なものであるが、それによって国家が崩壊することはない。しかし、一度に一千万人の人間が死ねば、国家は崩壊するのである。
 コマーシャルで「絶対安全」と原発はよく宣伝されていた。もちろんこの「絶対」は単に言葉の綾であり、「絶対」ということは絶対にない。先ほど書いたように9の数字をよりたくさん並べることしか人間にはできないのである。そして100%にならない以上、極めて稀ではあるが起こりうるということなのだ。なまじ数字を並べるから「絶対安全」などという言葉に騙される。正しい日本語は「ごくごく稀にしか起こらない=ごくごく稀ではあるが起こる」である。で、起こってしまったときに、国家そのものが危うくなるようなものは造ってはいけないのである。それだけの話なのではないか。

 これだけでも原発を作ってはいけない理由として必要充分であると私は思う。が、もう一つ付け加えておく。
 これも机上の計算が得意な人間の陥る罠であるが、建物や設備がほぼ完璧に安全といえるぐらいのものであったとしても、それを運用するのは人間だということを計算に入れていない。
 これを読んでいるあなたはミスをしたことがないだろうか。私はこれまでにミスをしたことがない、という人がいたらお目にかかりたい。それは神様かもしくは新生児であろう。人間はミスをするものである。装置がどのように安全に造ってあったとしても、それを運用する人間はミスを犯し、安全性を下げるのである。
 今度の事故にせよ、東京電力の信じられないようなミスが次々に明るみに出ている。線量計の大半が使えなくなってしまっていた、線量計を持たさずに作業をさせていた、測定値を間違えて発表した、原発と本店との専用通信回線を誤って切断した、係員が他を見て回っている間に空焚きになってしまった、他にもいろいろあるのだろうが、まあここまでよくもミスするものだなというぐらいの有様である。
 原発はまかりまちがえば大惨事をもたらすものであるということは誰しも知っている。当然そこで働く人間には、それにふさわしい緊張感や責任感が求められるはずである。しかし実は人間の緊張は長期にわたって続けられるものではない。いかに危険なものであっても、何年もの間何も異常がなくルーティンワークをこなし続けているだけの日が続けば、緊張感などはいつの間にか失せる、それが当たり前なのである。
 乗用車は人を殺すことのできる凶器でもあるが、車を運転する際に「これは凶器である」と言い聞かせ、緊張感を持って運転する人がどれだけいるであろうか。
 今回の福島原発の事故で他の原発の関係者はしばらくの間ぴりぴりした状態で仕事をこなすだろうが、十年、二十年、そのような緊張を持続できるわけはない。いずれ誰かが「原発のような危険なものを扱っている人間とは信じられない」ようなミスをしてのけるだろう。表に出るかでないかは知らないが。
 つまり、人間の運用するものについて完璧を求めてはいけないということなのである。ミスは起こる。従って事故も起こる。起こるものとして、起きたときにどう対処するのかということを考えておくのが人間の知恵というものである。
 で、起きたときに対処不能、そんなものは当然造ってはいけないのである。

 さらにもう一つ、非常に始末の悪い問題として使用済み核燃料=放射性廃棄物の件がある。が、もう詳しく書く必要もなかろう。上記の二つで原発を作ってはいけないという原則的結論に揺らぎようはないからである。ただ一つだけこの件について書くと、われわれは未来の人間に付けを回して生きているのである。非常に恥ずべきことであろう。
 おまけとして、原発はコストが安いなどというのはとんでもない嘘である、という見解があるが、これに関しては調べるのも面倒なので書かない。コストが安かろうが高かろうが、本質的議論には関係ない。どんなにコストが安かろうが死んでしまっては意味はないのだ。

その2 原発を造らないと?

 原発は造ってはいけないというと、必ず撥ね返ってくるのは「だったら、その分の電気をどうするんだ」という反問である。
 その反問に対して、納得させるだけの答えは実は日本人の誰もが持っていない。ということで、その反問によってすべての反対意見は封じ込めたといわんばかりに原発推進の旗を振りやまないのがこれまでの政府・電力会社の姿勢であった。
 少し考えてもらえば分かることだが、その反問に対して皆を納得させうるだけの答えがあれば、とっくの昔に原発など廃止されているに決まっているのである。原発が危ないものであることは承知だが、他に手段がない以上やむをえないということで、目をつぶるないし消極的賛成に回るというのが大半の人であろう。
 ここは発想をまず入れ替える。原発は使えない、少なくとも新規原発はありえない、これを至上命題=前提条件にする。なぜという反問を出す人は、もう一度、「その1」を読んでください。
 そうした上で、最善の策を考えるのである。
 まず明白なことは

  一、既存の原発を即座に廃止することはしない。
  二、既存の原発の安全対策を早急に見直す。

 一については原発反対派から異論は出るだろう。しかし現在の原発依存率が3割を超えている現状で、原発を即座に廃止することはあまりにも非現実的である。特に今回の大事故で被害にあっていない地方の人たちの大多数を納得させることは困難であると思われる。
 その上で、代替エネルギーについて大幅に助成金を増やし、日本の英知を結集させて研究させる。
 太陽光発電などの代替エネルギーは現在の研究段階ではとても原発の代わりになるほどのものは得られないと言われている。ただ、それは研究費が少ないからだということもできる。研究に金は必要だが、それこそ電力会社は代替エネルギーの研究に金を出すことはほとんどしてこなかったのである。民間に研究開発を任せると利益が確実なものにしか回らない。原発で利益を得ている会社が、それに代わるエネルギーの研究に金を出すはずもない。むしろ妨害するであろう。各大学の原子力関係の教授といわれる方々に原発反対派の学者が一人もいないというのも、間接的にそれを物語っている(国立大学の独立行政法人化はこの意味でも大失敗であったといえよう)。政府が直接金を出さなければいけないのである。
 最も力を入れるべきは蓄電の研究である。電気の最大の問題点はごく少量しか蓄電ができないこと、それに尽きる。そしてそれをクリアすれば一気に解決に向かうし、現在の数倍の容量を持つ蓄電器ができるだけでも、かなり事態は改善するはずである。
 要は、「原発に代わるエネルギーはない」という答えを導き出しているのはそういう研究が日本国のため緊急に必要であるとほとんど誰も思っていなかったからなのではないか、ということである。
 日本人の最高の頭脳をこの方面に結集すれば、近未来に解決策が編み出されると期待するのはそれほど空想的でもあるまいと私は思う。

その3 経済成長?

 20世紀の終わりごろから環境問題が各国の主要な問題として浮上してきた。一時期などは経済成長などというものは基本的にもう望むべくもないというような議論がされていたような記憶がある。
 地球は有限である、従って資源も有限である。その有限である資源をひたすら浪費しまくって「経済成長」という競争に躍起になり、挙句の果ては地球環境自体を生物にとって生存しにくいものに変えつつあるのが人間である。環境問題はこれ以上そんなことをしていると破局が来るよ、ということを地球に生きるすべての人間に教えたはずなのである。
 その結論が修正されたなどという話は聞かない。
 どの研究機関の予測でも、遅くとも今世紀の半ばごろまでには、人類の文明は転換期を迎えると予測している。最悪の場合は文明社会は崩壊する、最善の場合でも、経済成長などというものはなくなってしまうと。
 そういう結論がずいぶん前から出ているにもかかわらず、喉もと過ぎれば熱さを忘れるというか、先進諸国はまたぞろ「経済成長」を目指している。一時期見かけられた経済成長路線をやめろというような議論は、もはやほとんどどこにも見当たらない。
 災い転じて福をなすという言葉があるが、ちょうどいい機会である。日本は世界に向けて宣言すべきである。「日本は経済成長競争からは降りる」と。
 人が目指すのは「幸福」であろう(そうではないという人もいるだろうが、最大公約数的にはこれで間違いないと思う)。そして少なくとも日本は幸福にとって必要な物質的条件はすでに充分満たしている。これ以上の便利さも、これ以上の物質的豊かさも望まないという人は私以外にも多数いらっしゃるはずである(言っておくと、私は物質的には日本人の平均以下のものしか所有していない)。
 私の子ども時代、つぎはぎだらけの服を着て外を走り回っていた子どもたちは、どうみても今の子どもたちよりは幸福であったような気がする。古くは明治時代、日本を訪れた外国人が「日本の庶民は物質的には確かに貧しいが、しかし世界でももっとも幸福な人たちであるかもしれない」と述べている。そして子どもたちの明るさに触れている。
 歴史上空前の豊かさを誇る現在、子どもたちは幸福だろうか? いや私たち自身が幸福だろうか? 
 経済成長は「幸福」とはどうも無関係であることは間違いないのではないか。少なくともこれ以上の経済成長は幸福の追求にとってはまったく不要であると断言して差し支えないであろう。明治の開国以来の歩みの中でどこかで私たちは決定的に間違えているのである。
 さて、これ以上の経済成長が不要ということであれば、電気の消費量も今後さほど大きく増えることはない。となれば少なくとも原発の新設は不要になるはずである。東京電力の管轄内だけが計画停電になってしまっているが、それはたとえば個人あるいは個人営業の商店、電源を切ることができない病院その他を除いて、週に一日必ず定休日を設けること(工場ならば稼動させないこと)、というような条例を作ることで、かなりの節約が可能になるはずである。

(管理人注:これはおそらく未完、論として不足はないが収まりが少し悪い気がする。もう少し加筆する予定だったか、あるいはもう少し大きな著作の一部に組み込むための書かれたものと思われる。)

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